みんな元気ですか
昨日の続き
テンゾーは上海在住のユダヤ人社会からヨーロッパにおけるユダヤ人迫害の実態を詳しく聞いていた。
このことに大きな関心を寄せていた。
すぐに在外領事官などに日本の陸軍の友人を通じてユダヤ人を上海に受け入れる用意があると伝えた。
どのくらいの人数になるのかはおよその見当しかつかなかったが人道的な理念に沿って行動することを最優先した。
テンゾーの信念はいつも曲がらない・・・
かれは人類は皆が兄弟であり「天の下にみな平等である」社会が来ることを信じていた。
そしてそのように行動した・・・
満洲から海路日本の舞鶴港などを経由して上海に到着したユダヤ人は二万人を超えた。
ほかに満洲から陸路上海にたどり着いたユダヤ人も6000人を超えていた。
この二つのルートをこれだけ大量のユダヤ人が上海を目指すことができたのはテンゾーの並々ならぬ根回しがあった・・・
もちろん現地のヨーロッパや満洲で自らの地位と命をリスクにさらしたリトアニアの日本人領事(杉原千畝)や日本軍の一部上層部(樋口季一郎など)の人道的な努力も忘れてはならない。
しかしテンゾーの努力によって多くのユダヤ人が命を救われたことは当時の大道市政府関係者と裏社会と一部の在上海ユダヤ人社会を除いてはあまり知られていない。
反対勢力も多かったので表立って行動することは得策ではなかったから・・・
上海でのユダヤ人の受け入れは必ずしも多くの関係者が賛成していたわけではなかった。
ドイツの秘密警察(ゲシュタポ)は上海にもあり、ドイツ国内と同じように上海に収容所(ゲットー)をつくりそこにユダヤ人難民を強制収容しようとしていた。
テンゾーはゲシュタポに追われることになった・・・
杜月笙は表立って目立つような助けの手を差し伸べることはしなかった。
自らの組織に余計な敵は作りたくなかった。
しかしテンゾーに敵対するグループの動きについての情報や忠告はいつも与えていた。
当時日本はアメリカに対して宣戦布告前夜であった。
テンゾーは上海にいて当時の国際情勢を知りつくしていた。
そしてアメリカと戦争をすることの無益を再三日本軍の上層部に忠告をしていた。
戦争反対を唱えるのは非常に勇気のいる行為だった。
当時の軍部に戦争反対を忠告した人はどれくらいいるのだろうか・・・
このため彼は日本の軍部からも要注意人物としてにらまれるようになっていった。
杜月笙は始めて会った時のテンゾーの言葉を思い起こしていた・・・
「この世で命をかけないで何が出来ると言うのだ。
正しいことをやるには命をかけないと出来ないのだよ。」
この続きはまたね
(だんだんヤバい臭いがするな~)