みんな元気ですか
きのうの続き・・・
日本では少なくとも37か所に徐福伝説があります。
北は青森県から南は九州鹿児島県まで徐福がこの地に
来ていたとする伝説や記念碑があります。
間違いなく徐福の大集団は日本に来たのです。
と言うより日本を目指して東の海に漕ぎ出したのです。
現在徐福の末裔とされる名字は福永、福岡、福島、福仙、福山、福寿、福田、福畑、福海、福住などとされています。
一方この大集団の中には秦氏も当然いました。
言わば徐福の行動を見守る始皇帝のお目付け役として・・・。
秦氏の枝別れはの名字は時代を追うにしたがいおびただしい数になります。
主な名前だけでも「秦」以外にも波田、羽田、秦野、波多野、
島津、長曾我部、宗、神保、川勝、楠、赤松、
波田、八田、矢田、半田、畠、畑、広畑、
林、高橋、長田、川辺、三林、高尾、井手、他がその系列とされているようです。
余談ですが以前の総理大臣羽田孜氏は秦の始皇帝の末裔の家系とされ
自宅にはダビデも祀られていたそうです。
羽田氏が総理大臣になった時には中国では仲間が
総理になったと喜んだと言う記録が残されているそうです。
中世には人口の約半数が秦氏の氏族であったと言われています。
この徐福と一緒に日本に渡って来た秦氏は始皇帝の直系の血族でした。
古事記によれば応神天皇の時代(216年)、融通王に率いられ日本に帰化したとあります。
朝鮮半島より渡来した帰化人とされています。
古事記は710年に藤原不比等(ふじわらのふひと)が稗田阿礼(ひえだのあれ)
の覚えていた伝承を書きとめさせて編纂した事になっていますが
その年代や事実関係は極めてあいまいです。
当時の天皇家の都合によって大きく史実が曲げられていると言うのが定説です。
一説によりますとこの藤原不比等も秦氏の末裔とされています。
この融通王と言うのは中国の歴史書には出て来ません。
しかも我々は秦氏が朝鮮半島の出身ではない事をよく知っています。
おそらく融通王とは徐福の事ではないかと想像します。
ここまでが今までに分かっていて記録にもある史実です。
しかしこの史実だけでは本当のところは何も分かりません・・・。
研究者の間では徐福渡来の真相については
仙薬探しを口実にした秦始皇帝による国外追放説や
(徐福はもともと斉の国の王家の出身だった・・・)
戦乱を逃れた徐福の逃避行など諸説があります。
山本弘峰と言う徐福研究家はこう言っています・・・。
「徐福の東渡の目的は仙薬探しではなく始皇帝と徐福それに秦朝の
高官のみが知っていた極秘事項があった。
なぜなら徐福らが最終的に出航したとき
始皇帝自らが見送っているからである。」・・・と。
この事について風さんは意外な事を教えてくれました。
続きはまたね・・・
(歴史に埋もれたこともいつかは暴かれる時が来るのさ・・・と語る僕)