みんな元気ですか
シリーズ一応の最終章だよ・・・
スサノオとニギハヤヒ親子は頻繁に大陸に戻っていた形跡があります。
前出の植林のために木の種をたくさん持ち帰ったことなどが
記録には残っています。
余談ですが砂漠を流浪した経験を持つ民にとって植林は決して
おろそかに出来ない命に繋がる学習の経験だったのだと思います。
最初から豊かな緑の山河に恵まれた民族には
この発想は決して生まれて来ないような気がするのです。
この事から想像するのですが彼らは大陸のどこにいけば何があるのか
よく知っていたと思われるのです。もしかすると徐福の一行の子孫の
親戚など大陸には残っていた可能性も大いにあります。
そしてどのような土地にどのような作物が育つのかも経験によって
熟知していたと思います。徐福の一行が日本に渡来した時もまずこの技能
や経験をフルに活かし自分たちの生活基盤を確保したのだと思います。
そのために必要な灌漑治水技術も当時の原日本人の水準から見ると相当
発達していたのだと想像します。あるいは彼らはその技術をおしみなくあたえる
事により先住者との摩擦を避け信頼を勝ち得ていったのではないでしょうか。
日本の各地に残る「三年寝太郎」の話しを思い出します。
秦の国が漢にとって代わる時もおそらくかなりのドラマが
あったのだと思います。なぜなら秦の民と漢民族は全く違う民族です。
言葉も違います。秦の国から逃れて来た民をスサノオ親子は数多く
受け入れたのではないかと思うのです。その中には親戚や知り合いも
いたかもしれません。日本を平定するために戦う兵力や武器は
当然のことですが、進んだ技術をもつ秦の民はその当時
国の基盤を整備し建国を急ぐ日本ではいくらでも活躍する場が
あったのだと思います。移民受け入れ大歓迎、失業率ゼロ・・・
といったところでしょうか。おそらく同じ言葉を話す事も出来たのだと思います。
なぜなら徐福の一行の子孫はまだ健在だったはずですし、ましてや頻繁に
大陸と行き来をしていたのであればそれなりの交流が積極的に
行われていたと思えるからです。
そのためにこそニギハヤヒは奈良の三輪山の都につながる
大和川の水運交通の整備を急いでもいるのです。
時は少し下りますがあの謎の多い秦氏一族がなぜ(記録上は)突然
日本にあらわれてその後ゆるぎない地位を築く事が出来たのか・・・
という謎もとけるような気がするのです。
特に天皇家との密着度はある意味異常でした。
外国から来た民が優秀な技能を持っていたと言うだけでは
考えられない事でした・・・。
徐福の夢・・・モーゼ以来の放浪の民の悲願はこうして実現しました・・・
イスラエルの失われた10支族が直接日本に渡来したかどうかは
分かりません。彼らが直接日本に渡来したとすると時代的には徐福の
時代よりかなり以前になります。もしかするとその人々が日本で先住者に
なっていた可能性もないわけではありませんが記録や証拠が
少なすぎます。
しかしその10支族が秦という国をおこしたかあるいはつながっている
可能性は大いにあります。
参照「秦の始皇帝の野望」へリンク→こちら
その秦の時代を経て遥か遠くの未来を見つめた始皇帝と
徐福の旅はここに完成を見たのです。
天皇制という不死の命を得たのです。
日本と言う蓬莱山で・・・
ちなみに「みかど」とは古代ヘブライ語で統治するもの
と言う意味だそうです。
始皇帝も中国の歴史上初めての皇帝でした。
ちょうどスサノオとニギハヤヒのように・・・
(長い旅だったなぁ~・・・これで少しゆっくり休めるよ・・・おやすみぃ)