みんな元気ですか
前回の続き・・・
スサノオ没後4~500年のあいだはニギハヤヒの直系の子孫
物部氏が朝廷では比類なき権勢を誇っていました。
しかしおごれるもの久しからず時は移り変わります。
仏教の渡来と共に仏教擁護派が台頭します。
それまでの神道の神に全てを委ねて来た政治にほころびが出始めます。
当時の政治は「まつりごと」と言います。宗教と政治は一体でした。
どの宗教を政治の中心に据えるのかと言う事は一大事でした。
長く続いた神道中心のまつりごとにま新しさがなくなり人々の心に
神道に対する秋風が吹き始めていました。
そこに大陸より仏教がもたらされます。
仏教は病気の平癒等に力を発揮する場面もありました。
これを好機として今まで絶対だった物部氏の地位に揺さぶりを
かける者が現れます。それが蘇我氏でした。
俳仏派の物部守屋と擁仏派の蘇我馬子の壮絶な戦いに物部氏は破れ
一族は途絶えます。参照(ウィキぺディア)→こちら
この後に仏教を熱心に擁護した聖徳太子が活躍します。
6世紀後半から7世紀前半の事でした。
その後権力の中心が蘇我氏から藤原氏に移ります。
その藤原氏(藤原不比等)がスサノオ・ニギハヤヒのそれまでの
歴史に完全に終止符を打ちます。それが8世紀の初めに完成した
古事記・日本書紀でした。これによりスサノオ・ニギハヤヒ親子が
日本の黎明を切り開いた事実を消します。
・・・と、ここまでが教科書にも出て来る表向きの事柄です。
しかしこの記紀により隠された事の他におかしな疑問がさらに
いくつかあるのです。
仏教とキリスト教を信仰した聖徳太子とは本当は何者だったのか・・・
常に聖徳太子と行動を共にした秦氏とは何者だったのか・・・
さらに葦嶽山でスサノオが封印された時になぜ逆六芒星が
使われていたのか・・・
古事記・日本書紀以外にも深い事情がありそうなのです。
続きはまたね・・・
(ん~謎がなぞを呼んでいるなぁ~・・・ワトソン君)