みんな元気ですか
前回の続き・・・
聖徳太子はいくつもの名前を持っています。
実はどれが本当か分からないのです。
少なくとも生前は聖徳太子の名前で呼ばれていなかったのは
はっきりしています。おそらく没後100年くらいたった後で
付けられた名前だとされています。「聖徳太子」とは正式な名前では
ないんです。しかも歴史の教科書に出て来る聖徳太子の名前は
厩戸皇子(うまやどのおうじ)となっています。
思えば変な名前です。
聖徳太子に関して伝えられている多くの事がらは実は
あの日本書紀によるものです。(注:日本書紀は720年頃編纂。
聖徳太子は没647年頃とされています。)我々はすでに日本書紀の
編纂された目的がスサノオ・ニギハヤヒの存在を消すために
造られた書物だと言う事を知っています。とすると、まず書かれた内容や
関係者やその時系列などの全てに「ある意志」が働いているかもしれない
という可能性に注目する事になります。そのことを知っていた江戸時代
以降本当に多くの学者が聖徳太子の業績の大半は彼のものではないと
否定しています。そのために投獄された学者や書いた書物が発禁に
なった人もいます。(参照ウィキぺディア→聖徳太子虚構説
)
つまり聖徳太子の事について今我々が知っている事は
ほとんどがあやしいのです。
彼はネストリウス派の初期のキリスト教である「景教」を信奉していました。
景教は当時の中国(隋の国)にも広く伝わっていました。
太子が建てたとされる太秦の広隆寺は景教の寺院であることが
知られています。彼の教科書上の正式名称の「厩戸皇子」は
キリスト誕生になぞらえて付けられたと考えるのはごく自然な事です。
聖徳太子は馬小屋・・・あるいは馬小屋の前で生まれたから
この名前が付いたとされています。日本書紀では彼は当然かなり
身分の高い貴族の家柄の出身とされています。
高貴な家柄の出自としては極めて不自然な誕生の仕方です。
逆にここにヒントがあるよと教えてくれているようです。
ちなみにネストリウス派のキリスト教はいわゆる「新教」です。
つまりキリスト以後の教えをもとにしています。
そして今まで見て来たようにスサノオ・ニギハヤヒはもともとは
モーゼ・ダビデの流れをくむユダヤ教つまり「旧教」です。
なにか「スサノオ封印」の秘密と関係している臭いがします。
さて日本書紀に書いてあることが全て疑いの対象だとしたら
基本中の基本の疑問をどうしても通らなければなりません。
彼は本当に伝えられるように仏教に帰依していたのでしょうか。
キリスト教と仏教の両方に帰依するという不自然さは何を
意味するのでしょうか。
そもそも聖徳太子は日本人だったのでしょうか。
そこまで疑うのか・・・と思うかもしれませんが。
その答えに関してある手掛かりがあるのです・・・。
続きはまたね・・・
(んー、これはますます何かがにおうよ・・・ワトソンくん・・・くんくん)