前回の続き・・・
話しをもとに戻します。
秦河勝とはどんな人物だったのでしょう。
ウィキぺディアには以下のようにあります。
抜粋します。
QUOTE:
秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ
渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝
ともいう。
河勝は秦氏の族長的人物であったとされ
聖徳太子のブレーンとして活躍した。
平安京や伊勢神宮の創建などに関わったという説もある
没したのは赤穂の坂越である。
坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、
神域の生島には秦河勝の墓がある
河勝は猿楽の祖でもあり、能楽の観阿弥・世阿弥親子も
河勝の子孫を称した。現在、楽家として知られる東儀家
は河勝の子孫であるといわれている
秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人
一族であったとする説がある。
秦一族が渡来する6世紀以前にすでに唐に東方キリスト教の
「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていた
ためである。
ローマは大秦と呼ばれている。また、秦の始皇帝の父親が
碧眼であったと言われており、中東から移住してきたという説も
存在し現イラクやイラン(古代ペルシャ)、アラム地方、エラム地方
にはゾロアスター教などユダヤ教やキリスト教の前身となる
宗教が存在しており、古代のユダヤ人も住んでいた
UNQUOTE:
いくつか注目すべきことがここにはあります。
秦河勝を祀る神社は大避神社と言いますがこれはダビデ神社
だと言う事は以前紹介しました。彼がユダヤ人であることは
ほぼ間違いないと思えます。しかし秦の始皇帝の父親が青い目
(碧眼へきがん))をしていたことはこの記事から初めて知りました。
彼が関わった平安京は碁盤の目をしています。真偽のほどは
わかりませんがこれは十字架を型どったのだという説があります。
それに事実だとすると伊勢神宮の創建に関わったことは見過ごす
ことの出来ない話しです。なぜなら我々はすでにそこに祀られた
アマテラスがスサノオ・ニギハヤヒの存在を消すために古事記・
日本書紀によって造られた皇祖であることを知っているからです。
秦氏がスサノオの封印に積極的に関与したことがうかがえます。
それに・・・太秦が中国語で「ローマ」を表すことはとても興味深い
事実です。京都にも「ローマ」(太秦)があることになります。
八坂神社の祇園祭があまりにも古代中近東の臭いがする事も
合わせると不思議な気がしてきます。日本の中心(京都)に何か
異質なものがあるような気がして来るのです。
秦の始皇帝が率いた民は秦が滅びた後には「客家」として
生き延びました。彼らは「秦」の次に起こったいわゆる「漢民族」
とは少し違う民族です。ちなみにウィキぺディアによると客家は
「原則漢民族」と表記されており微妙な違いを示唆しています。
「客家」は(はっか)と呼びますが彼らの住居「円楼」は世界遺産
になったほど有名です。まるく囲った城壁の中で親族だけで
暮らします。多い時は100家族程がその中で暮らします。
外部との血縁交流を遮断するのです。そのために言語も独特の
のものを発展させました。余談ですが、彼らの住む「円楼」が
アメリカの偵察衛星によって発見された時にその形状から核の
サイロと勘違いされ大問題になった事がありました。
この「客家」の言葉と日本語に共通の言葉があるのです。
例えば日本語の数字の数え方は実は漢語よりも客家の
言葉に似ているのです。「客家」とはよそから来た民と言うほどの
意味ですが世界中に散らばった華僑の民(裕福な商業の民)
の元になっている事はあまり知られていません。秦氏もかなり
裕福な商人でした。現代の華僑と通じるものを感じます。
伊勢神宮は彼の財力で創建された程です。それに世界中で
活躍するユダヤ商人と華僑が実は元をたどれば同じ民である
かもしれないと言う事がこんな所でつながっているのも何か
不思議な感じがします。
続きはまたね・・・
(また封印されそうになるボク・・・って、また寝るの)