終ってしまいました。
昨日見えた人が聖徳太子なら本当にあの有名な肖像画とかなり
違っていました。
顔立ちが濃い人でしたよ。眉が太く、体つきががっちりとして、
首があんまりなかったようにも見えました。実はその時、
二人の方を思い出していましたので、ご報告しておきます。
そんな人だったのですが、皆様の夢を壊したかもしれませんネ。
それと、いつの時代なのか分からなかったのですが、
顔に入れ墨をした人達がいたような画面も前に見たように思います。
日本の神話が古事記であり日本書記だとしたら、私達は永遠に
不思議な世界とはご縁が深き生き物かも知れませんネ。
中国の三国時代(220)が始まる頃、卑弥呼、魏に使者を送る(239)と
書かれた暦を見せられると、ロマンと云うより、何があの頃起きたのか
不思議な世界の方に教えて欲しくなります。
「人の世は変われども 人の心の変わらぬものなし」
お釈迦様が生まれた頃の日本はまだまだ赤ちゃん。
キリスト様が処刑されたとされる年の約20年後に、
後漢光武帝から倭奴国が金印を賜った下りは前に教えてもらった
ようにも思う。
ただネ。聖徳太子のお顔が見方によったらローマ人?
のようにも思えたから、不思議です。
もしかすると大昔、ローマ皇帝の使者が中国に行く時のお土産?
の女性と、その頃の中国のトップとの間にお子様が出来ていたら
どうだろうかなァ~て考えてしまいます。倭国大乱が起きている頃の
ローマ皇帝って、いたのかなァ。
今日もわけも分からない事を書いてしまいました。
入れ墨はアイヌとも古代沖縄の人達とも共通します。
古代中国の記録に倭人は海で素潜りをして魚を獲るのが
得意だと書かれています。そこで海の民と呼ばれていたようです。
そしてこの人たちは古代フェニキアからの
そして古代フェニキアこそがモーゼが目指した「約束の地カナン」
と言う事はあまり知られていません。
フェニキア人は遠洋航海が得意でした。
日本の各地にもフェニキア文字が見つかっており彼らの
足跡を残しています。一時フェニキア文字のペトログリフが
ブームになった事があります。彼らも海の民です。
だから広く日本の海岸沿いに彼らの痕跡があります。
そしてフェニキア人はなんと古代ヘブライ語を話していました。
ちなみにこの海の民である種族が語源になって
あの裏伊勢籠神社の「海部」さんの名前が来ていると言う事が
記憶の何処かにあります・・・。
余談ですが・・・
山に住んで狩猟で暮らす人々を古代には「山幸」と呼びました。
海に住んで漁で暮らす人々を「海幸」と呼びました。
高い崖の横穴に住んで戦いを避ける人々を「穴幸」と呼びます。
この「あなさち」が北米先住民族のアナサジ族の語源に繋がります。
ちなみに予言で有名なホピ族は「霊を尊び保つ」・・・「保霊」(ほひ)から
来ているそうです・・・。
ほかにも本当にたくさん日本と北米先住民族の間には
この照さんの記事の時系列や史実の正確さには
おどろいてしまいます。
だとすると・・・もしかして・・・聖徳太子は本当に日本人ではなかった
と言う事になります・・・