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日本昔話「3年寝太郎」の続きのおはなし・・・![]()
昔からの言い伝えや昔話には時々貴重なヒントが隠れていることが
あります。その一つが3年寝太郎のお話しなんです。3年寝太郎の
おはなしは昔話や童話によくある教訓めいたテーマを扱っている
ように見えますがよく考えると不思議な疑問があるんです。このお話
は日本全国にすこしづつ違ったお話しとして伝えられています。
そしてお話の起源はいつ頃か時代背景が分からないほど古いんです。
しかしそのことについて実はいくつか重要なヒントが隠されています。
寝太郎だけが灌漑用水と治水の土木作業の技術を持っていたこと。
つまり村人たちが水路を作る事を思いつかない時代。そしてすでに
稲作が行われていた時代・・・と言うと思い当たることがあるんです。
記録によるとそれに類した同じような事を日本で最初に起こした人達が
いるんです。それがあの蓬莱山を目指して旅に出た徐福の一団です。
彼は秦の始皇帝の命を受けて5千人とも1万人ともいわれる技術者と
高貴な家柄の子供たち(一説にはそれだけで3千人)を連れて日本に
やってきたという記録が史記等にあります。日本側の記録は当時の文字の
事情などでまったく残っていません。おかしなことですが彼らの来訪の
事実は日本ではほとんど無視されて来ました。しかし日本のいたるところに
徐福が初めて日本に上陸したとする言い伝えが残っています。中国側には
驚くほど多くそれを記した資料が現存しています。時代的には秦の国が
滅びる少し前です。紀元前2世紀前後だと思います。彼らは食糧確保の
ため当時の最新の技術と多くの植物の種や苗を日本に運びました。
特に稲作には力を入れました。稲作は治水灌漑の整備を必ず伴います。
彼らは高度な灌漑の技術を持っていたのです。
当時の日本人にはまるで・・・
寝太郎がいきなり岩をおとして水路を変えたような印象に映ったのかも
知れません。なぜ彼らがそのような高い技術を持っていたのか・・・。
そのことが実は秦の兵馬俑を擁する始皇帝稜からうかがう事が出来ます。
ウィキペディアによると始皇帝稜は以下のように説明されています。
QUOTE:
1974年に地元の住民により発見された。兵馬俑坑は、この陵を取り巻く
ように配置されており、その規模は2万平方メートル余におよぶ、
きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、
武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。
この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具
等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重な
ものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所
だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に
武士俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、
調査がなされていない。史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の
川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考え
られていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発
が確認され、真実である可能性が高くなった。
UNQUOTE:
おそらく徐福に同行した一団の中にはこの始皇帝稜の地下帝国建造に
関わった技術者(あるいはその子孫)がいたと思うのはごく自然な事です。
それだけでも当時は世界的な先端技術だと思いますが実はさらに驚く
ような秘密が始皇帝稜にはあるんです。始皇帝稜は盆地のような山を
背景にしています。山からの地下水路が始皇帝の墓に流れ込むんです。
しかし地下水の浸食をうけると始皇帝の遺体は腐敗してしまします。
それを防ぐために彼らは地下水の流れをも変える事によって水の影響が
が始皇帝稜に及ばないようにしていることが最近の発掘調査で明らかに
なっているんです。
この意味は実は遺体を腐敗させないというためだけではありませんでした。
地下の水脈をコンロールして始皇帝稜が盗掘されたり破られないように
龍脈を貼り強力な結界張りめぐらしたのです。しかしそれすらも発掘調査で
分かってきたいくつもの仕掛けの一つに過ぎません。まだ発掘されては
いませんが地下にピラミッド様の建造物の存在が音波探知機で明らかに
成っているのです・・・
続きはまたね・・・![]()
(夢の中で始皇帝のお墓に行ってきたボク・・・広くてヘトヘト
)

