みんな元気ですか
歴史ミステリーです・・・
我々が知っている・・・教えられた・・・歴史には
その多くに裏があります。
以前にも同じテーマで書いたことがありますが・・・
その昔「日いずる処の天子、日没するところの天使に申す・・・
つつがなきや・・・」
という書き出しで始まる書簡を携えて大陸の大国に東の小国から
使いを出した天子がいました。
その大陸の大国は当時世界でも有数の文明と強大な軍事力を誇る
大国でした。その小国は東のまだ未開の地にあり国家としての組織も
いまだ未完成のまま。都も未整備状態でした。
しかしその大国は今で言う最恵国待遇・・・対等の立場でこの小国を
迎えました。なぜでしょうか・・・
それはこの小国が自分の兄弟の国と認識したからかもしれません。
再び・・・それはなぜでしょうか・・・
それはこの小国が自分と同じ宗教を奉じていたからなんです。
日いずる・・・日没する・・・とは実は旧約聖書にそのままの文言があります。
この二つの国はそれまでに公式の交流はありませんがこの手紙によって
いわば兄弟の関係として迎えられた可能性があるんです。
遠い昔に枝分かれした兄弟と言う待遇で。
あるいは同じ神に仕える兄弟と言う意味で・・・。
この言葉はその天子が考えたとされていますがそうではありません。
この言葉は旧約聖書から引用されているのです。
しかしその当時宣教師がこの未開の小国に派遣されたという記録は
ありません。
それなのになぜこの天子は旧約聖書の文言を知っていたでしょうか。
その書簡を送った人物は聖徳太子と呼ばれています。
しかしそれは彼の実名ではありません。
歴史の教科書にはその名前は正式に出てこないのです。
小学校の歴史の教科書に出て来る彼の名前は
「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)と言います。
馬小屋で生まれたとされるキリストをなぞる出自を自分の名前に
しているんです。なお仏教では彼の名前を唱える時には
「南無上宮太子聖徳皇」(なむじょうぐうたいししょうとっこう)と唱えます。
彼は夢殿という小さな建物を建てました。
その8角形の小さな建物はイスラエルのガラリア湖の
ほとりにも同じ形同じサイズの建物があります。
そこはキリストが初めて説法をした場所として
キリスト教徒の巡礼の聖地となっています。
彼は広隆寺を建造したとされています。
この寺は景教の寺院としても知られています。
景とは中国語で「ひかり輝くもの」・・・つまりキリストのことなのです。
景教とはネストリウス派の古代キリスト教のこと。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の
指の印は右手の指が3位一体(さんみいったい)を表す景教独特の印を
結んでいます。
この指が作る3角形は3位一体の印として広く知られています。
(広隆寺弥勒菩薩像)
敦煌で見つかった数枚の景教の牧師の絵がこれと同じ印を結んでいます。
景教僧人物画(大英博物館)
上のこの絵は敦煌の第17石窟で発見されたもので、
右手の人差し指と親指をくっつけて三角形を作り、
三位一体を表わしています。
左手に持っているのは十字架。
下の絵は同じ印を結ぶイコンです。
「栄光のキリスト」(1123頃)
ウェイデン「救世主キリスト」(1452頃)
そして・・・
キリストの古い絵ほど広隆寺の弥勒菩薩像の右手が結んだ
印と形が似ているんです・・・
それがこれ・・・
アヤソフィアの壁画(東ローマ帝国時代)
薬指が親指とくっついています。
弥勒菩薩半跏思惟像とまったく同じ印を結んでいます。
この3角形が3位一体の原型と言われています。
なぜ仏像でキリストの像を彫ったのでしょうか。
それは当時中国や日本には仏像の彫刻家(仏師)しか
いませんでした。だからキリスト教関係の彫像の作成を依頼
しても、仏像に似た物になるのは仕方がなかったと思えるのです。
あるいは・・・あからさまに西洋の物を作ってはならない理由があり
それと分からないように偽装した可能性もあるかもしれません。
我々が知っている・・・教えられた・・・歴史には
その多くに秘密にされ、隠された裏があります。
聖徳太子にはまだまだ多くの謎があるんです。
初めの疑問に戻ります。
なぜ彼は旧約聖書の文言を知っていたでしょうか・・・
続きはまたね・・・
(祈りをささげるニャーモス・・・)