みんな元気ですか
前回の続き・・・
スサノオの第5子であるニギハヤヒはフルネームを
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま ニギハヤヒ の みこと)
と言います。
九州平定の時は幼名「大歳」(おおとし)を名乗っていました。
大和にはいる直前に名前を変えました。
九州から神戸あたりまで大歳人神社は多くあります。
しかし大阪から東に行くと大歳神社はありません。
大きな舞台に立つための決意を感じます。
余談ですが二ギハヤヒの頭のふた文字の天照が伊勢神宮の
アマテラスの名前に使われました。
伊勢神宮に男神を視る霊能者は今でもいます・・・。
ちなみにスサノオにはニギハヤヒを含め
五十猛(いたける)や須勢理姫(すせりひめ)など8人の子供がいた
と言われています。
スサノオと8という数字はかなり縁があるようです。
京都の八坂神社や八岐大蛇(やまたのおろち)のように。
スサノオはこれらの子供たちを各地の要所々々に配置します。
同様にニギハヤヒも自分が大和に落ち着くと
長男ウマシマチ(宇摩志麻治)を島根に、
次男アメノカヤマ(天香山)を新潟の弥彦山に
派遣し地方の押さえの要にしています。
父スサノオと同じ戦略です。
思えば時を近世まで下ると18世紀に
あのロスチャイルド家の当主もハンブルグに居所を置き
5人の子供をフランス、イギリス、イタリアなどのヨーロッパの
各主要都市に配置しました。
そして血族の情報網と連携のネットワークを築きました。
同じ遠い祖先をもつと思われる血族の戦略が遥かなる時を違えて
全く同じように見えるのは偶然でしょうか・・・。
ニギハヤヒの話しにもどします。
大和のシンボル三輪山は彼の居所です。
ふもとにある大神(おおみわ)神社はニギハヤヒを祀っています。
(クリック拡大)
(大神神社・・・伊勢神宮以降に見られる算木(さんぎ)・・・屋根の上の横木・・・が見られません。明らかに普通の神社と様式が違います。)
この地に宮殿を置き政治の基点としました。
彼は国の基盤をいかに作ればよいか完璧なほどの知識を持って
迷いなく実行していきます。
宮殿の地を中心として当時では驚きの整備された道路を作ります。
今の「山野辺の道」です。
大和時代の後世の天皇もこの道路に沿って屋敷を構え
神社や聖跡碑を造りました。
次に水路の整備です。
大和川と初瀬川の水路を遡る物資の流通経路を完成します。
物資が流通するようになれば市が立ち商業が繁栄します。
人が目的を持って集まって来ます。
今までとは全く違った都市の誕生です。
そのすべてが大神神社を起点としているのです。
住民の生活基盤を作るために新田の開発を指導しコメ作りを教えます。
人々の健康を増進するために薬草の栽培も奨励します。
大神神社の4月18日は毎年「鎮花祭」(はなしずめのまつり)が
行われ神前に薬草をお供えします。
「大同類聚方」(だいどうるいじゅうほう)と言う後世書かれた和方の
医薬の書物に大神神社に伝わる薬とその製法や効能が述べられて
いるそうです。徐福の技能集団の子孫は、いままで命より大切にして伝えた
匠の技をここで最大に発揮する場を与えられ、新たな国を造る
喜びにふるえていたのではないでしょうか。
おおくの民と共に、見る見るよくなっていく暮らしを眺めながら
大和の大王ニギハヤヒのもとで・・・
続きはまたね・・・
(あっ、おいらその人ときのう夢の中でおしゃべりしたよ・・・陽気な酒好きの人だったなぁ・・・って、マジ)