みんな元気ですか
さらに唐の時代の中国のこと・・・
歴史が権力者によって塗り替えられるのは世の常です。
楊貴妃の事も同様に玄宗皇帝にとって都合の悪いことは
かなり史実の改ざんがなされたと思われます。
楊貴妃の出自にはいくつもの説があり明確ではないのです。
同様に彼女の周辺にいた人物についてもつじつまが合わない
事がいくつもあります。
あやふやな伝承に頼らず事実と思われる伝承だけをたどると意外な
姿が浮かび上がってきます。
再びウィキペディアによりますと・・・
同時代の唐の詩人白易居(はっきょい)による有名な長編詩集
「長恨歌」には楊貴妃は「蓬莱」に国に渡ったと記述されています。
「蓬莱」とは日本の事を指すのは徐福の時代から中国の隠語です。
熱田神宮の明神は楊貴妃の事だと言う伝説があります。
山口県には楊貴妃が阿部仲麻呂とともに安史の乱を逃れて日本に
来たとの伝説があり、長門市油谷町には楊貴妃の墓があるそうです。
他にも日本に逃れた事を暗示する証拠がいくつか日本にはあるのです。
これらが「事実と思われる」根拠はいかに玄宗皇帝でも日本での記録
までに自分の影響を行使することは出来なかったと思えるからです。
さて・・・
ここで陰陽師とのつながりが少し浮かび上がってきました。
ここに出てくる阿部仲麻呂ですが、彼は遣唐使として唐の国に渡り、
そして科挙の試験(唐の上級国家公務員試験)に合格してそのまま
役人になりかなりの上級職(大臣職)にまで上り詰め、
結果日本に帰ることはなかったと伝えられています。
一説には玄宗皇帝が仲麻呂の帰国を許さなかったともいわれています。
ところが我々が知っている仲麻呂はあの阿部清明の祖先なんです。
通常遣唐使は若い留学生が選ばれます。
つまり・・・
若くして唐に渡り日本に帰ってこなかった人物が日本で
子孫を残すことは不可能なんです。
もちろん当時は途中で日本に一時期だけ帰郷することも出来ません。
仲麻呂は日本に帰っていたのです。
おそらく楊貴妃と一緒に。
その証拠に日本には楊貴氏(八木氏)がいるんです・・・
続きはまたね・・・