みんな元気ですか
遣唐使吉備真備のこと・・・
ウィキペディアから引用します。
奈良時代に吉備真備という有名な学者がいました。
学生時代の歴史の教科書にも出ていました。
ダジャレのような名前が印象に残っていますが
その吉備氏について書かれた記事です。
QUOTE:
吉備真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) –
宝亀6年10月2日(775年11月3日))は、日本の奈良時代の学者、
政治家(公卿)。正二位・勲二等・右大臣。下道真備
(しもつみち の まきび)、吉備下道真備(きびのしもつみちのまきび)
などとも呼ばれた。備中国下道郡(後の岡山県 吉備郡 真備町 、
現在の倉敷市 真備町)出身。父は右衛士 少尉 下道圀勝
(しもつみちのくにかつ)。
母は楊貴氏(大和国(後の奈良県 )の氏族 と
覚しき八木氏 の女性
とされるが疑わしい 。下道氏 は吉備地方で有力な地方豪族
吉備氏 の一族。異説として加茂氏 系図に、吉備彦之孫・(鴨の)
吉備麻呂 ・右大臣という記載があり 、この人物が吉備真備であるという
説がある。また賀茂保憲 や賀茂光栄 は吉備真備の末裔とする文献もある。
UNQUOTE:
余談ですが・・・
もも太郎の物語に出てくる岡山県のきび団子の「きび」は
吉備団子とも書きます。吉備真備と直接関係はないようですが
この団子の方のきびは「黍」(きび)という穀物より来ています。
サトウキビのきびですがひえとかアワに近い穀物です。
このきびをもちのようにして作ったのがきび団子だそうです。
話を戻します・・・
この「八木氏の女性とされるがうたがわしい」という部分の
疑わしい根拠は調べてもはっきりとは出てこないのです。
「楊貴氏墓誌」という古文書によると八木氏の先祖は楊貴氏とあります。
楊貴氏は「やぎし」と読みます。つまり八木氏の祖先は楊貴氏だと
言っているのです。
しかしこれだけでは話が繋がりません・・・
そこでこの人の登場です。
地震予知で有名になった照さんの2011年9月1日の記事です。
QUOTE:
楊貴妃(2) <2011.9.1
安禄山が反乱を起こし、彼は四川に逃れようと
したが自殺したとか。この時、玄宗と楊貴妃も一緒だったとか。
サァて、此処までは歴史にお詳しい方はご存知かもしれませんが。
エェ~、楊貴妃が好きだった相手が楊国忠だった事は知らなかった
ですって。私はこの楊国忠なる人さえ知りませんでした。
楊貴妃は首を括り、縊死したと伝えられているそうですが、
どうもそこが違うようです。
彼女は日本にやって来たと云うのです。
揚子江から船で我国日本に到来したと云うのです。この話は後々、
熱田の神と云う伝説まで作っているくらいですから
あながち真実かも知れません。
オッと、何でこんな事を書いたのか分かりませんが、
日本に楊貴妃が来ていたとしたら面白いお話です。
此処で又、新事実登場。
八木と云う名前のルーツは「楊貴=やぎ」だったと云うのです。
吉備真備の母の氏が、この楊貴氏だったとか。
こうして教えられると不思議な事だらけですが、まさか八木姓が
「楊貴=やぎ」から来ているなんて、実に楽しくなって来ます。
日本中の八木さ~ん、
もしかするとあなたの血の中に楊貴妃の血が流れている
かもしれませんよ!
もしかしてあなたの娘さんはベッピンさんではありませんか!
秋は近し、今宵は楊貴妃の膝枕でお休みになる夢でも、
殿方は見て見られては如何でしょうか。
以上です。
UNQUOTE:
照さんの霊視・・・中国4千年のおじちゃまのお話によりますと
楊貴妃は安録山と対立して勢力争いをした自分のいとこの
楊国忠と恋仲だったのです。
そこで歴史に残っているはなしと照さんのお話とを
総合すると次の構図が浮かび上がってきます。
歴史では玄宗皇帝が楊貴妃を殺したことになっていますが
実際はあまりに寵愛していたので殺すことは出来なかった。
しかし国が内乱状態にまで乱れた上に統制上示しがつかないので
恋がたきの楊国忠に内乱の責任を取らせてこれを処罰します。
もちろん主犯格の安録山も処罰します。
その後に殺したことにした楊貴妃を秘かに日本に逃がしたのです。
玄宗皇帝は逃がした楊貴妃をその後もあきらめきれないでいた
という状況証拠が他にもあるのです。
その謎のカギを握るのが吉備真備なのです。
そしてこの重なった偶然のようにみえるえにしの綾が
日本の陰陽師に多大な影響を与えているのです・・
続きはまたね・・・
(イッピー・・・急にふけた・・・?)