みんな元気ですか
前回の続き・・・
ウィキペディアによりますと聖徳太子は以下のように
説明されています。
QUOTE:
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) –
推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族。
政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女
穴穂部間人皇女。推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と
協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど
大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や
十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の
確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
UNQUOTE:
下の絵が一般的に聖徳太子だと思われている絵です。
昔の一万円札の肖像画のもと絵です。
そして先日もこのジリーズで掲載しましたが、
下の絵が照さんの言う首が短くローマ人の風貌の
聖徳太子像に近いと思えます。
聖徳太子像(菊池容斎『前賢故実』)/ウィキペディアより
伝えられている聖徳太子の概要についてはそのほとんどが
「日本書紀」によります。ところがその日本書紀自体がかなり史実とは
かけ離れていて当時の権力者の都合で創作されているので
なかなか実体がつかめません。
聖徳太子は本当に実在しなかったという虚構説まであります。
しかもこの虚構説を支持する歴史学者もいます。
(参照(ウィキペディア)→聖徳太子(の虚構説の部分)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
)
このため聖徳太子についてはいくつもの謎があります。
このすべてを追いかけていてもキリがありません。
そこでその謎を2つに絞って追いかけてみようと思います。
その一番目は最初の疑問・・・
聖徳太子とキリスト教の謎です。
二番目が「照」さんが言うなぜ彼が怨霊となったのか・・・
についてです。
まず第一番目の謎ですが・・・
彼は当時の中国の大国である「隋」の国に旧約聖書から引用した
「日いずる処の天子、日没するところの天使に申す・・・」と言う書簡を
送っています。この言葉を聖徳太子はどうやって知りえたのか・・・
という点について探ってみようと思います。
そのなぞの答えは彼の側近(従者)にありました・・・。
最初に述べた弥勒菩薩像の安置してある広隆寺のある場所は
山背(やましろ)の国、太秦(うずまさ)です。
そこは聖徳太子の側近の秦河勝(はたのかわかつ)氏の居所です。
秦氏の名が太秦の語源ともされますが、
「景教」をひもとくとウィキぺディアに次の説明があります。
「景教とは中国語で光の信仰という意味であり、
景教の教会を唐の時代太秦寺という名称で呼んでいた。」
つまり京都の「太秦」の地名は秦氏にちなむものではありますが
もともとは唐の時代の景教の寺院から来た名前と見るのが妥当
なのです。そして太秦とは秦の始皇帝を由来に持つ名前です。
ウィキぺディアにはさらに次の記述があります。
「中国景教の研究により1941年に東京帝国大学より文学博士号を
授与した佐伯好朗によると、一説に渡来民族である秦氏によって
日本にも景教が伝わったともいわれる。中国ではダビデを漢訳して
大闢と書くが、秦氏は西日本の日本海各地に大避神社と号する神社を
建立し、また京都の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した
大酒神社も、昔は大辟、さらにさかのぼると大闢と号していたと報告。
また同神社が管理している木嶋坐天照御魂神社にある「三柱鳥居」
という珍しい鳥居は三位一体を表わし、また「いさらい井戸」は
イスラエルの転訛で、したがって旧約聖書に登場する失われた
10支族の末裔ではないか、などと推察している。」とある。
この佐伯博士の説はにわかに信じがたいので異論を唱える者もいる。
しかし状況証拠としては反論のしようがないほどに揃っている気がする。
ダビデと始皇帝は同列に・・・あるいは同族としてまつられている。」
これは何を意味するのでしょうか・・・。
前章の内容の一部繰り返しになりますが、
秦の始皇帝はダビデの子孫である可能性がある。
あるい血縁関係はともかく失われた10支族の末裔である可能性は
否定できないと言っているのです。
つまり秦氏の祖先は古代イスラエルの民と関係が深いと
言っているのです。その秦氏はいつも聖徳太子と行動を共にして
いました。
これで意外にあっさりと聖徳太子とキリスト教のつながりの謎が
解けたような気がするのです。
太子は側近の秦河勝よりキリスト教の影響を受けているのです。
次回は聖徳太子「怨霊」説の謎です。
続きはまたね・・・
(真実を見つめるボクの・・・目)