みんな元気ですか
さらにスサノオのなぞのこと・・・
スサノオの出自を探ると不思議な胸騒ぎがします。
なんだかゾワゾワとしたものが上がってきます。
特牛(コットイ)はどこから読んでもその読み方にはなりません。
明らかに日本語ではありません。
その謎を解くために以前こんなおはなしを書きました・・・
「神々の指紋」を書いたグレアム・ハンコックによれば1万2千年
前にはアラビア湾は海ではなく川でした。
今のチグリス・ユーフラテス川とつながっていました。
ペルシャ湾とも言いますがサウディ・アラビアとイランに
挟まれ地政学的にも非常に重要な海域です。
その地域の豊富な地下資源のために国際紛争が堪えません。
この海は以前はありませんでした。
大洪水で広大な土地と文明が海に沈んだのです。
ハンコックによればアラビア湾や紅海は潜ればすぐにでも
古代遺跡が発見されるそうです。海底古代遺跡の宝庫です。
エジプトとも近くピラミッドやスフィンクスの謎の解明の
ヒントになる手掛かりが見つかるかも知れません。
ちなみに地質学の最近の研究報告では1万2千年前の氷河期の
終わりに世界各地を襲った大洪水では今の
ヨーロッパ全土と中国を合わせた以上の
広さの土地と文明が徐々に海に沈んだとされています。
土地の形成によっては一瞬で・・・例えば一晩で・・・沈んだ場所も
あるようです。
(参照→YouTube Graham Hancock Presenting at the 2012 conference
http://www.youtube.com/watch?v=X4k8pdJ2so4
)
このペルシャ湾のイラン側(古代ペルシャ)に沿ってエラムと言う王国が
紀元前3200年頃から紀元前539年まで存在していました。
これだけでも相当長い間栄えた王国です。
これは少なくとも考古学上で分かっている年代です。
下の写真がエラムの支配地域だったとされています。
しかし実際は大洪水以前より存在していた文明だと想像するのです。
(ウィキペディアより/クリック拡大)
(エラム王国)
これは当時の古代の国々の地図です。
独自の言語と絵文字を持ち隣国ともあまり交流がなかったようです。
そのために実態がよく知られていませんでした。
そのエラム人は自らをハルタミまたはハタミと呼んでいました。
(参照ウィキペディア→エラム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%8E%8B%E5%9B%BD
)
日本語と似ています。
「ハル」あるいは「ハ」の民なんです・・・。
そしてこのエラム古王国の首都がスーサと言います。
古代ペルシャの憲法である有名なハンムラビ法典もこのスーサから
発掘されており、いまではパリのルーブル美術館に保管されています。
スーサは数千年のあいだこのエラムの首都だったのです。
(参照ウィキペディア→スーサ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B5
)
さて・・・
昨日の記事でスサノオの別名を牛頭天王とご紹介しました。
この「天王」の最後の文字は「の王」の意味を持ちます。
同時にスサノオの最後の二文字は「の王」と読めます。
つまりスサノオは「スーサの王」だった・・・
あるいはスーザと何らかのつながりがあるような気がするのです。
ちなみにこの地方ではバアル神は聖なる最高神でした。
さらに・・・
エラムではいくつかの王朝が栄えます。
上のウィキペディアの「エラム」の記述の中に歴代王朝の
王たちの名前が詳しく書かれています。
歴史の研究で分かっている時代だけでもアワン朝からはじまり
シュマシュキ朝やバビロニや統治の時代を経て
最も栄えていた時代がイゲ・ハルキ朝と言います。
その初代大王の名前からこの王朝の名前が命名されています。
イゲ・ハルキ・・・とは二ギハヤヒの事でしょうか。
そして・・・
昨日ご紹介しました祇園祭の山鉾巡行の絵柄が
この中近東地方と深いつながりがあることは偶然でしょうか。
さらには・・・
エラムの最初の「アワン朝」とは古事記に記された「アワの国」と
関係があるのでしょうか。
彼らが自らを呼んだ「ハルの民」といい
日本語との共通点があるのはなぜでしょうか。
続きはまたね・・・
(ウィキペディアより)
(スーサで発見されたスフィンクス/ルーブル美術館蔵)