ダイナミック香港 終章 知られざる日本統治時代

みんな元気ですかドキドキ

歴史の中の香港・・・グッド!

もう一度香港に戻ってこのシリーズを終えたいと思います。

以下の写真はウィキペディアからお借りしました。

(ウィキペディア参照→香港

これは短い間ですが1941年から1945年の正式な香港旗です。

この時代日本は香港を統治していました。

このシリーズの終わりにその時の事に少しだけ触れたいと思います。

日本人は閉鎖的だとか島国根性の民族だと言われる事があります。

確かに閉鎖的なところはあるかもしれません。特に経済や貿易障壁

に関する点では海外からの批判を受けることはあります。

しかしこれに関しては広い意味でお互い様という感じがします。

島国根性という批判に関しては実はこれは海外から批判されている

と言うよりは日本人の自虐ネタのような気がしないでもありません。

外国人から島国根性を言われることはあまりないような気がします。

なぜなら・・・

多少歴史を正しく認識している人ならお分かりになると思いますが・・・

日本人は少し以前東南アジアの多くの国々及び中国大陸等を

欧米列強支配から解放し、それぞれの国の国民による自治が果たせる

ように自らの犠牲を省みずに多大な尽力をし貢献しました。

(その一部、中国大陸を中国人民のために解放しようと努力し、また

他民族を救う為に戦った日本人を描いた中編小説を書以前書きました。

よければ参照ください。

(こちら→龍が通れば

作家でエッセイストの岡田光世さんが2011年の文芸春秋の新年号に

こんなことを書いていました。

少し長いですが途中引用させていただきます。

QUOTE:

私は長年、ニュ―ヨークにすんでいた・・・中略

昨年夏、シカゴからニューヨークへ向かう飛行機で、生後間もない

赤ちゃんを抱いた白人女性が隣にすわった。

いつ生まれたのですか、と私から声をかけ、会話が始まった。

明日でちょうど5週間、シカゴに住む夫の両親に、孫の顔を見せに

行った帰りなんですよ、と女性が答えた。

たわいもないおしゃべりの後で、あなたは日本人ですか、と聞かれた。

そうですよと答えると、少し間をおいてその人が言った。

「ミスター・スギハラをご存知ですか」。

「リトアニアの領事館にいた杉原さんですか」

女性は私の目をまっすぐに見た。「ミスター・スギハラは、

祖父の命の恩人なんです」。

やはり「日本のシンドラー」と呼ばれる、あの杉原千畝(ちうね)氏の事

だった。杉原氏は第二次世界大戦時、リトアニアの在カナウス領事館に

領事代理として赴任していた。

ドイツ占領下のポーランドから逃れて来たユダヤ人は、欧州を脱出する

ために、日本通過ビザを求めて領事館に押し寄せた。杉原氏は外務省の

命に背き、避難先の入国許可を得ていない者や十分な旅費を持って

いない者にも、ビザを発給し、六千人ものユダヤ人の命を救ったと

言われる。その頃、リトアニアはソ連に制圧され、各国の在外公館は

相次いで閉鎖、杉原氏にも再三、退去命令が出ていた。自らが身の

危険にさらされながらも、最後の最後、ベルリンへ向かう列車が

走りだすまで、許可証を書き続けた。

当時、女性の祖父は、ユダヤ教の神学校に通っていた。学生らの命を

救うために「どうか三百人分のビザを」と嘆願され、杉原氏はそれを

聞きいれた。ある学生はビザ発給作業の手伝いを買って出た。

こうして祖父は、学友らと共に、杉原氏が発給したビザを手に無事、

神戸に辿り着いた。その後、上海へ渡り、やがてアメリカに永住する。

祖父の家族は皆、ナチス・ドイツ軍に虐殺され、この地域のユダヤ人は

ほとんどが生き残れなかったと言う。

12年前にニューヨークで、亡き杉原氏の人道的偉業を讃える式典が

行われた。祖父は杉原氏の息子の手を握り締めたまま離そうと

しなかったという。当時、9歳だった女性は、そのことを今でも鮮明に

覚えている。「ミスター・スギハラがいなければ、私もこの子も、

今ここにはいませんでした」。私はその3年前の事を思い出していた。

マンハッタンの南部で、コーシャーフード(kosher food=ユダヤ教の

律法に準拠した食品)を扱う店にふらりと立ち寄った。例のごとく、

カウンターにいた女性店員に話しかけた。私が日本人と知ると、

その店員はミスター・スギハラを知っているかと聞き、日本人がいかに

素晴らしいか、一息にまくしたてた。そして商品棚へ駆け寄り、

大箱のクラッカーやウエハースなどを片っ端からビニール袋に詰め込み

私に差し出した。

「お金は払わないで」。

杉原氏の功績をたたえるパーティーが開かれた時、この店は感謝の

思いをこめて、食料品をすべて寄付したと言う。

ふと我に返ると、隣の席で赤ちゃんは母親にすべてを委ね、

まだ眠っていた。杉原氏が書いた一枚のビザが、一つの命を救い、

祖父から息子へ、息子から孫へ、孫からひ孫へと、その命が

受け継がれている。

後略

UNQUOTE:

日本が欧米列強からのアジア解放を模索した事実はほとんどが

知られることはありません。先の大戦に対する評価が根底から

変わるからです。「歴史は常に勝者によって書き換えられる」

という事実はここでも生きています。その意味で日本は

残念ながら近い将来に国際連合の常任理事国にはなれるという

期待は出来ないのです。「正しい歴史認識」とは中国や韓国が

日本に向けて批判するための言葉のような印象があります。

日本と東南アジアの真実の歴史が近い将来に明らかにされる

ことを祈りながらこのシリーズを終わります。

最初に掲載した香港旗があった時代には、現在の

ペニンシュラ・ホテルが日本軍の東南アジア参謀本部でした。

今は全くその面影はありませんが。

誤解のないように申し添えます。

その当時日本は香港を中国から奪ったのではありません。

それまで香港を植民地としていた宗主国イギリスからアジア人の

主権を勝ち取ったのです。

上海とともに香港は日本の過去の真実の歴史を知る証人です。

イッピーの独り言

(でね・・・真実は何時か明らかになるんだよ・・・ねっパー

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