大地との会話 24 天平の甍(いらか)

みんな元気ですかドキドキ

二ギハヤヒが基礎を作った天平の甍・・・グッド!

少し時代が下ります。

天平の甍(いらか)の時代は日本は今よりもはるかに国際色豊かな

時代でした。都の大路には外国人が闊歩し外国の食べ物も多く

味わう事も出来たと思います。

奈良の正倉院には当時日本にはいって来た多くの外国の品々が

展示されています。全てが常時公開されているわけではないので

おそらくまだ驚くような物があるかもしれません。

さて・・・

この外国との交易の基礎を作ったのは二ギハヤヒでした。

彼は日本で最初の都を今の奈良県桜井市の大神神社に定めます。

国内外の交易を促進するために太田川をある程度の外国船が

はいって来られるように整備します。治水灌漑は彼の先祖の同族と

思える「三年寝太郎」の時代から得意とした技術です。

太田川の水路は大神神社のすぐ側にまで到達していました。

当時の大阪湾は東京湾と同じく今よりもずいぶんと内陸まで

はいりこんでいました。南方や中国からの外国船が四国の航路を

行き来していました。スサノオ・二ギハヤヒ親子は当時からこの

四国を大切な航路と認識していました。現在の愛媛県大三島にある

大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)はスサノオが西の瀬戸内海航路に

目を光らせていた拠点でした。二ギハヤヒの孫の乎千命(おちのみこと)

が自ら植えた大クスの木が今でもあります。

(乎千命手植えの大クス)

瀬戸内海航路の東には現在の琴平宮に若き二ギハヤヒが

拠点を構えました。琴平宮の「宮」はもともと神社と言う意味では

ありません。二ギハヤヒの「宮殿」でした。

(琴平宮外観)

大きな船は太田川には入れず瀬戸内海の終点は太田川の河口に

は外国人がたまる町が出来ました。当時の奈良の都とはきわめて近い

距離関係にありました。

話は飛びますが・・・

阿部清明は陰陽師を究めるためには外国語にも精通していました。

というよりももともと外国語に日常的に接していたと思われます。

(参照過去記事→謎の陰陽師

陰陽師の技術の多くは天文道を含め外国の技術つまり呪術や占術でした。

(映画陰陽師より・・・)

この外国語がわかるという利点が清明の才能を伸ばす基礎となりました。

清明の母親は「白ぎつね」と噂されています。この白狐は信田(しのだ)の森

に住んでいました。信田の森とは太田川の河口にあります。

太田川にはいれない外国の大型船が多く停泊していました。

このため多くの外国人の船員がこのあたりで長旅の疲れを癒していました。

信田の森とはそのような場所でした。

阿部清明の母親は白人だった可能性が

強いと思われるのです。

日本は江戸の鎖国時代が長く続いたために

独自の文化を古来より保っていた

というイメージが現在では強いのですが、もともとは

極めて外国に開かれた文化を持っていました。

このことがスサノオが活躍できる基礎となっている可能性があります。

あるいは時代が下り聖徳太子が影響力を行使できる基盤となりました。

「よそもの」を大いに受け入れて来たのです。

いまも日本人の血の中に外国に対してある種憧れが残っているように。

続きはまたね・・・グッド!

(あこがれを見つめるボク・・・目

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