みんな元気ですか
昨日のつづき・・・
聖徳太子は実在の人物ではなかったという説は実はかなり支持されて
います。なぜなら太子についての記述はそのほとんどが日本書紀に
よります。古事記・日本書紀は時の為政者によりかなりの脚色が
施されているからです。当時の為政者とはもちろん藤原氏です。
藤原氏は物部氏及び蘇我氏なきあと勝者の歴史を残そうとしました。
そのために編纂されたのが古事記・日本書紀でした。
十七条憲法の制定、仏教導入、遣隋使の派遣、当時の圧倒的な
大国だった中国との対等の立場の交易条件の確保など多くの実績が
伝えられながら公に太子の存在の証拠となる記録がいくつかの寺社
などの建造物を除いて全くないのです。
普通に考えれば異常です。
聖徳太子の記録は意図的に消されていると考えた方が自然です。
現在も歴史の教科書に正式に紹介されている名前はあのキリストの
誕生を彷彿とさせる「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)です。
しかし・・・
聖徳太子は確かに実在しました。
彼の存在は曲げられかなりの部分は消されたのです。
それには理由があります。
詳しくは以下のシリーズにゆだねます。
こちら→シリーズ 聖徳太子
上のシリーズにも書きましたが・・・
地震予知で有名になった松原照子さんの霊視でも伝えられて
いますが聖徳太子はおそらく「ローマ人の風貌」をしていました。
聖徳太子は外国人だった可能性が非常に強いのです。
そうであるとすれば彼に伝えられる謎の多くが氷解するのです。
当時の世界で最もすすんだ大国である「隋」との対等の交易の
条件を勝ち取るために送った例の書簡にある「日いずる処の天子、
日没する処の天子に申す。つつがなきや・・・」という旧約聖書の
文言を引用した事実や、彼が建造したとされる広隆寺が
キリスト教ネストリウス派の寺院であった事等の背景がにわかに
光を放つのです。彼の名前「厩戸皇子」の由来も意味を持ちます。
そして何よりも・・・
聖徳太子に関する逸話の一つ・・・「太子は10人の人々が口々に
陳情することを一度に正確に聞きわけた・・・」という話も
なんとなくわかります。
太子はおそらく複数の外国語を話すことができたのです。
太子が複数の外国人と話をするところを初めて見た人の目には
伝えられている逸話のように映ったのではないでしょうか。
当時はいまから想像するよりもはるかに外国との交流が
あったのです。交易の相手は中国だけではありませんでした。
海のシルクロードを通ってほかにも遠くフェニキア(今のギリシャ)等
とも交易がありました。ユネスコ世界文化遺産に指定された奈良の
正倉院にはその証拠の品々がたくさん納められています。
おそらく思うより多くの白人も当時の日本にはいました。
太子がもし外国人であったとすれば彼にはいかに太子でも、
つまり多くの実績を持ち、同時に天皇の皇子(みこ)の待遇を
受けていたとしても天皇になれる可能性は
恐らくは全くなかったのではないでしょうか。
聖徳太子はそれを自覚していたと思うのです。
そう思いたいのです。
聖徳太子は天平の甍の時代を風のように駆け抜けました。
この国に対して複雑な思いを胸に抱いて。
続きはまたね・・・
(天平を思い遠い目をするボク・・・)