みんな元気ですか
前回のつづき・・・
スサノオ達にはもう一つ日本にそれまでいた豪族達に
どうしてもまねが出来ない強力なものを持っていました。
それこそが日本を統一するために必要な最大の手段でした。
もちろん治水・灌漑・土木の技術や農耕に関する高度な技術を
持っていました。それに植物・薬草に関する知識も大陸から
もたらしました。結果海までも豊かになりました。安定的な食料の
確保は穀物だけではなく、海の幸も豊かにもたらしたのです。
スサノオは後に海の神としても祀られることになった理由が
ここにあると思われます。それに加えて温暖な環境を作るという
それまでになかった考え方や、山や森に緑をもたらすという
大自然の声を聞き大自然と合理的に一体になって暮らすと言う
いわば革命的な変化をそれまで眠っていたような
日本にもたらしました。
それまでの日本は縄文・弥生時代です。もちろん大自然と一体に
なって暮らしていました。しかし「大自然と一体に暮らす」事の意味が
全く違います。縄文・弥生人にとって大自然は「畏れ」(おそれ)の
対象でした。台風や自然災害は神の怒りでした。
洪水は防ぎようのない大自然の脅威です。
神の怒りを鎮めるためには人柱を立てて
人間の犠牲者をささげることもなされました。
それが人間が大自然に対して誠意を見せるせめてもの
そして考え付く最大の方法でした。
しかしスサノオ達は積極的に森を豊かにする事によって
自然を見方に付けたのです。
大自然に対しての祈りの意味が違うのです。
それまでは祈りは恐怖と共存していました。
しかしスサノオは大自然に対する祈りを
「感謝の祈り」に変えたのです。
さて・・・
スサノオが持っていた日本統一に必要な最強の物
それは航海技術です。
徐福が秦の国を出る時に連れてきた技術者の中には航海術や
造船のすぐれた技工(専門家)がたくさんいました。
そもそも5千人からの移動に必要な船団を持っていたのです。
スサノオたちは日本全国の驚くべき距離を移動しています。
思い起こせば彼らの祖先はエジプトを出て以来気の遠くなるような
距離を移動し続けてきたのです。日本の内部を移動することは
世界を放浪することに比べれば恐らくそれほど困難なことでは
なかったのだと想像します。
しかしこれは当時いかに狭い日本とは言え道のない陸路では
不可能に近いと思われます。
日本各地に我こそは「徐福が最初に上陸した土地」と宣言する
市町村が多くあります。それらの町や村は徐福が陸伝いに
歩いてきたとは言っていません。
必ずそこには船で移動した影が見えるのです。
記紀神話にのこる神々が降り立った「あめのいわふね」は
今までに人々が見たこともないような外国製の大きな船だった
のかもしれません。
唐突に思えるかもしれませんが・・・
日本は船との遭遇でそれまでの歴史が大変革を起こしています。
最初は徐福やスサノオが乗って来た「いわふね」。
二度目は江戸末期に浦賀に姿を見せた「くろふね」
2度あることは3度あると言います。
次は「そらふね」でしょうか。
(クリック拡大/ウィキペディアより)
(京都貴船神社参道・・・たかおかみ(スサノオ)とくらおかみ(息子二ギハヤヒ)を祀る神社)