みんな元気ですか
前回のつづき・・・
徐福の一団は日本の広い範囲で稲作を教えました。
土着の先人に植樹・植林をして見せました。
この緑を増やすことがどれほど土地に劇的な改善を
もたらしたかそれを思うと楽しくなります。
その影響は食糧増産だけではありません。
「緑豊かなふるさと」は緑に強い執着を持っていた
祖先を持つ民によって作られて行きました。
山や森の緑は決して自然に出来るものではありません。
人の手があって初めて作りえる物です。
森が豊かになると海も豊かになります。
気候すら変化します。
温暖な四季は偶然に日本の位置する緯度が幸いしている
だけではないかもしれません。
この先人の先を見据えた驚くべき努力の結果かもしれないのです。
森の豊かさはそれだけで治水の効果を持ちます。
恐らく徐福たちは同行した土木技術・治水灌漑の卓越した技術者
の努力を持ってさらに農耕のための治水の大工事を各地で
行ったのだと思われます。
その技術や結果がもたらす効果は場合によっては「神」のワザと
人の目には映ったかもしれません。
余談ですが
弘法大師はこの技術にも優れていました。
しかし彼の仕事の前に日本の各地には見事な灌漑用水が
完成していたのです。例えば四国讃岐の満濃池は
弘法大師が作ったと思う人も多いのですが、実は彼は
この巨大な灌漑用水を修復しただけなのです。
この池を作った先人がいたのです。
想像を絶する労働力と技術力とがそこには秘められています。
これこそが日本各地を移動した徐福と彼の流れをくむ
謎の集団の行動のあかしだと思うのです。
余談ですが
香川県の剣山の周辺には山岳地に灌漑用の大小の
ため池が多くあります。
徐福の集団と剣山には何か関係があるのでしょうか。
何かにおいます。
その集団は存在すら消されてしまいました。
おとぎ話に姿を変えて。
過去記事参照・・・(日本昔話の動画より)
→「3年寝太郎と徐福の夢
」
穀物を中心とした食料の安定的確保はどれほど人々が待ち望んで
いたか・・・さらに毎年悩まされていた洪水の危険が
治水により改善された事もありました。
それを考えると徐福たちがいかに歓迎され喜びを持って
迎えられたか想像がつくのです。
しかし植林や稲作は結果が出るまで早くて3年かかります。
それがこのおとぎ話のタイトルの深い由来にも
思えるのです。
5千人ともいわれる徐福の同行者はおそらく少しずつ別れて
その土地に根付いて行ったのだと思います。
徐福や秦氏の末裔と言われる人々の名字が全国に
数多く分散しているのもこの関係だと思えるのです。
ちなみに現在徐福の末裔とされる名字は
福永、福岡、福島、福仙、福山、福寿、福田、福畑、福海、福住など
とされています。
一方秦氏の枝別れの名字は時代を追うにしたがい
おびただしい数になります。
主な名前だけでも「秦」以外にも波田、羽田、秦野、波多野、
島津、長曾我部、宗、神保、川勝、東儀、楠、赤松、波田、八田、
矢田、半田、畠、畑、広畑、林、高橋、長田、川辺、三林、
高尾、井手、がその系列とされているようです。
続きは又ね・・・
(クリック拡大)(ウィキペディアより)
(山口県厚狭駅(あさえき)前の三年寝太郎の像・・・徐福に見えます)