みんな元気ですか
祈り・・・
少し横道にそれます。
物理学の世界には物理学以前の大原則があります。
人間がいなければ宇宙は存在しないという原則です。
それについて考える人がいなければその対象は存在しない
という定義です。 物理学はすべてこの原則に従って理論構成
されます。この考えを突き詰めると人間が宇宙を作ったと
言っているようにも聞こえます。
同じような意味を持つ言葉に「はじめに言葉ありき」という聖書の
一文があります。世界が天と地に分かれる前に言葉があったと
言っています。よく考えると物理学の原則も聖書のこの言葉も
両方とも何か違和感があります。
違和感の理由は両者とも極めて人間中心だからです。
順番が違います。
人間がいて宇宙があったのではなく、宇宙が人間を作りました。
言葉が宇宙を作ったのではなく宇宙が人間を作りそして言葉が
生まれました。
さて・・・
古代レムリアびとは祈りを祈る時に自分の想いを伝えるために
祈ったのではないような気がします。
大自然の想いを素直に受け取るために祈ったような気がするのです。
何かを変えようとするのではなく、自分が変わるための祈りでした。
素直な自分を取り戻す為の儀式が祈りでした。
(参照過去記事→レムリアの夢
)
祈りの原型はフラダンスのようなものだったといいます。
「舞」を舞う事によって大自然と一体になる祈りでした。
「舞」という漢字はそこから来ているといいます。祈りの社殿の前で
踊り手が二人いま踊っている姿を表していると言われています。
ちなみに「無」という文字は、その踊り手が今まさに踊り始める時の
姿をあらわしているそうです。自分が無になって自然と同化している
姿かもしれません。
いにしえのレムリア・やまとびとはこの舞を踊りました。
大自然の声を聞くことができました。大自然はいつも人間の味方でした。
人間も大自然に常に感謝を忘れませんでした。
魏志倭人伝に「卑弥呼は鬼道をよくし・・・」とあります。
為政者はみな霊能力を持っていたと言っているのです。
その時代には政治は「祀りごと」でした。
大自然と一体になると言う事は霊能力を持っていることと同じ
だったと想像します。
いつしか順番に狂いが生じました。
人間が中心になりました。
大自然は時に荒れ狂うようになりました。
続きはまたね・・・
(真実を見つめるボク・・・)