みんな元気ですか
昨日の続き
テンゾーが杜月笙と兄弟の契りを結んだことは瞬く間に裏社会に広まった。
テンゾーの名前はそれ以後上海では広く知られることになった。
同時に彼の活動範囲も急速に広まった。
テンゾーは上海にとどまらずたびたび中国の東北部に出かけて行った。
荒涼とした農村地帯へ・・・
馬を走らせて彼は何処へでもいった。
そして農民の指導者と親しくなっていった。
そこでこの地帯の圧政と重税の現状を知ると農民解放に立ち上がった。
香河県と武清県で民衆蜂起を組織した。
5000人の農民がテンゾーを信じてついてきた。
激しい戦闘ののちに農民組織は勝利した。
この地方は当時日本軍と関係の深い満洲国およびこれに対する蒋介石が率いる国民軍の非武装中立地帯となっていた。
しかし中国国民政府から委託を受けた地方行政官の政治は乱れていた。
農民はこの戦いにより自治を勝ち取った。
日本軍は「北支5省の自治を認めて推進する」との談話を発表した。
テンゾーには中国国内に駐留する日本軍の高官にも友人がいた・・・
中国の農民による農民のための政治がこの時実現した・・・
この地方には古くから紅卍会と言う道教の一派である宗教が支配していた。
その始聖先天老祖の信者である農民たちは最初は日本人であるテンゾーを信用しなかった。
紅卍会の教えである「フーチ」の占いは何度試しても「テンゾーに従え」と出ていたという・・・
テンゾーはこの時の香河県の指導者だった蘇錫分の力を借りている。
蘇錫分はテンゾーが信頼している友人の一人だった。
その後テンゾーは念願だった理想国家の設立に向けて動き出す。
そしてついに昭和12年12月5日上海市大道政府と名付けた市政府を樹立した。
(上海は租界であったために中国本土とは切り離された自治権をもっていた。)
これは行政の方針を始め学校教育など細部に至るまでその政治理念はテンゾーの考えを反映していた。
手始めに上海市の浦東に市庁舎を設立する。
市長には蘇錫分がなってくれた。テンゾーは市政府最高顧問となった。
テンゾーの基本的な政治理念の一つに「人はみな平等である」と言う考えがある。
当時ナチスドイツから迫害された膨大な数のユダヤ人が逃げまどい行き場をなくしていた・・・
イギリスやアメリカさえもユダヤ人難民の受け入れには消極的であった。
英米に受け入れてもらえずまだドイツに逆戻りして強制収容所に入れられたユダヤ人も多数いた・・・
この続きはまたね
(なんだかお話しが少し緊張してきたよ・・)