秦の始皇帝の野望 3 カナンの地をめざして

みんな元気ですかドキドキ

きのうの続き・・・グッド!

お話しの先を急ぐことにします。

長い間徐福の存在と彼の物語は架空の事としてその真偽を疑われていました。

しかし1980年代にはいって次々に徐福に関する歴史的発見が中国でありました。

これにより現在は徐福は実在の人物であるとされています。

徐福が東の海に向かって航海に出た港が琅邪台(ろうやだい)と言われています。

この場所の近くには今でも「徐」の名を持つ徐福の末裔と思われる人々が多数住んでいます。

また近くには徐福の妻の実家の「夏」家がある夏家村も発見されました。

三方を海に囲まれ一方が陸とつながる琅邪台は山東省膠南市の琅邪鎮にあります。

この地には始皇帝も頻繁に訪れています。

その記録もありますし始皇帝の息子が作った始皇帝をたたえる2100年前に造られた

記念碑も中国の歴史博物館にあります。

始皇帝はこの港の高台に海を見下ろす展望台を作らせて

そこから東の上り来る朝陽をながめたといいます。

さて徐福は最終的に東へ船出するその前10年くらいのあいだに

実は2度も失敗して海から逃げ帰っています。

これはよく考えると少し不思議な話しです。

なぜなら物語では徐福が始皇帝を説得して不老不死の薬を

蓬莱山に探しに行くことになっています。

それには莫大な費用がかかります。

始皇帝は徐福の話をまともに信じて3度もその話しにつきあったのでしょうか。

最終的には徐福の東渡は、「数千の童男童女」を率いていました。

「史記」によると3千人の高貴な家がらの小さい男女の子供たち。

それに加えあらゆる技術者である「百工」それに当時の農作物の沢山の種。

弓をひく者などを加え、食料や水、生産の工具などを積んだとあります。

これには最低でも四~五百艘の船が必要です。

ざっと見ても5千人くらいの船団です。

そんなにコストがかかる話しです。

それになによりも3000人もの子供たちをつれて行く必然があるのでしょうか。

考えればおかしいのです。

そしてもうひとつの疑問・・・いったい徐福はどこに向かったのでしょうか・・

なにか歴史書に隠されていることがありそうです。

続きはまたね・・・グッド!

イッピーの独り言

(ん~・・・謎は深まるばかりだよ・・・ワトソン君てば・・・よじれる僕あせる

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