みんな元気ですか
少し息抜き・・・
ボクは「三年寝太郎」のYouTubeの動画の
お話をこのシリーズの前にアップした。
そのお話しが意味ありげではあるけど
単純に面白かったからみんなに見てもらおうと思った。
だから三年寝太郎のお話しは最初は「徐福の夢」とは関係は無かった。
寝太郎のお話をアップして一日が経ったとき風さんがボクに教えてくれた。
寝太郎は徐福の仲間だよ・・・って。
ボクはびっくりして少し調べて見た。
するとあることが浮かび上がって来たんだ。
だから「三年寝太郎」は「徐福の夢 1」にタイトルを後で変えたんだ。
(山口県JR厚狭駅前に建つ寝太郎の像)
寝太郎のお話にはいろんなバリエーションがあるらしい。
その中でも山口県山陽小野田市厚狭地区に伝わる寝太郎のお話しが
このすべての民話の原点のような気がする。
そのお話しのあらすじは・・・こうだ!
1・・・2・・・3 ・・・(あは!)
(ワン)(トゥー)(スリー)
あらすじ
庄屋の息子である太郎は、ろくに仕事もせず寝続けていたため、
周囲からは「寝太郎」と揶揄されていた。三年三月の間寝続けた
太郎がある日突然起きだし、父親に千石船と船一杯の草履を
造ってくれるよう頼む。父親は他ならぬ息子の願いでもあり
千石船と草履を作って与えると、太郎は船をこぎ出していってしまった。
数十日して太郎が戻ってくると、船の中の草履はぼろぼろの
ものになっていた。すると太郎は父親に大きな桶を用意してほしいと頼む。
太郎は父親の用意した桶でぼろぼろの草履を洗い始めると、
汚れた土の中から砂金が見つかる。実は太郎は佐渡島へ船をこぎ出し、
佐渡金山で働いている者の草履を無料で交換していたのだった。
太郎は集めた砂金を原資に堰を作り、灌漑水路を整備して田を開墾し、
村の百姓に分け与えた。
(ウィキぺディアより)
覚えていますか・・・
「秦の始皇帝の野望」の中で
徐福の一行は当時の最先端の技術を集めた技能集団でした。
しかも記録によればその数は少なくとも5千人。
そのうち子供が約3千人。
この大集団の移住は秦の始皇帝にも祝福されていました。
なぜなら始皇帝自ら徐福たちが出発した「琅邪台」
の港まで見送りに来ているのです。
参照→秦の始皇帝の野望 5
と言う事は徐福はこそこそと秦の国を後にしたのではなく
堂々と当時の最先端の技能集団と未来を引き継ぐ
身分の高い子供たちを連れて日本に渡ったのです。
徐福はそれ以前日本に下調べに来た事も分かっています。
つまり徐福は周到に調査をした日本の状況を始皇帝に報告します。
一般的にこの「下調べ」は「最初の渡航が失敗だった」とだけ
伝えられているのです。
実際には最終の渡航を果たすために始皇帝がこれほどの
確信を持って大船団を送りだしたのにはそれなりのわけが
あったと見るべきだと思います。
その確信とは・・・
祖先モーゼ・・・ソロモン王そして神と仰ぐダビデの遥かなる思いが
祖先が果たそうとして果たせなかった見果てぬ夢を
今こそ実現できる時だと言う確信だったのではないでしょうか。
傍証ですが・・・
秦の始皇帝が作った数千の騎馬兵の人型などを埋めた兵馬傭は
すべて東を向いているのです。
しかし徐福の墓とされる日本で発見された小規模な兵馬傭では
それが西を向いていたそうです。
まるで祖先が果たせなかった「約束の地」に
到達した事を報告するかのように・・・。
ちなみに現在一番有力とされている徐福の古墳が
福岡県八女市で発見されています。
その墳墓内の墓碑銘をコンピュータ―解析したところ
一族の名前と徐福の生没年が解読されそれがBC245~180年
となっている事が平成2年に発見されています。
話しをもとに戻します・・・
寝太郎の物語がいつ頃出来たのか分かりませんがおそらく
当時の人々が考えもつかなかった金の採集技術と治水灌漑用水の
技術を寝太郎が持っていたことから想像すると
おそらく紀元前の事だと思えます。
なぜなら国を統一するにはこれらの技術が必ず必要です。
日本の国家が統一されたのはちょうど一世紀から2世紀だとすると
人々が知らなかった技能だと言う意味でそれ以前の時代だと
思われます。
しかもその技術は徐福たちのもたらした技能であることは明らかです。
だとすると寝太郎は徐福の仲間だったと考える方が
とても自然なのです。
「三年寝太郎」のお話しにはそんなにも深い意味があった事を
風さんはさりげなく教えてくれたのです。
(遠い昔の見果てぬ夢を見た人たちに・・・夢の中で会ってるボク・・・やは~!お久しぶりぶり~)