契約のひつぎ 25 聖徳太子を本当に見た人がいた その2.

みんな元気ですかドキドキ

前回の続き・・・グッド!

照さんのブログ転載後篇です。

不思議な世界が展開します。

QUOTE:

Date: 2011.06.06 | Category: 世見
, 地震・自然災害
|

昨日は残念ながら聖徳太子のお話が中途半端なところで

終ってしまいました。

でもネ.

昨日見えた人が聖徳太子なら本当にあの有名な肖像画とかなり

違っていました。

顔立ちが濃い人でしたよ。眉が太く、体つきががっちりとして、

首があんまりなかったようにも見えました。実はその時、

二人の方を思い出していましたので、ご報告しておきます。

一人目は目黒祐樹さんと二人目は評論家の寺島実郎さんです。

どことなく二人をミックスしたようなお顔立ちでした。

中国の武将のような三国志のドラマの関羽のような、

そんな人だったのですが、皆様の夢を壊したかもしれませんネ。

それと、いつの時代なのか分からなかったのですが、

顔に入れ墨をした人達がいたような画面も前に見たように思います。

日本の神話が古事記であり日本書記だとしたら、私達は永遠に

不思議な世界とはご縁が深き生き物かも知れませんネ。

中国の三国時代(220)が始まる頃、卑弥呼、魏に使者を送る(239)と

書かれた暦を見せられると、ロマンと云うより、何があの頃起きたのか

不思議な世界の方に教えて欲しくなります。

「人の世は変われども 人の心の変わらぬものなし」

こんな事を思ってしまいます。

お釈迦様が生まれた頃の日本はまだまだ赤ちゃん。

キリスト様が処刑されたとされる年の約20年後に、

後漢光武帝から倭奴国が金印を賜った下りは前に教えてもらった

ようにも思う。

ただネ。聖徳太子のお顔が見方によったらローマ人?

のようにも思えたから、不思議です。

もしかすると大昔、ローマ皇帝の使者が中国に行く時のお土産?

の女性と、その頃の中国のトップとの間にお子様が出来ていたら

どうだろうかなァ~て考えてしまいます。倭国大乱が起きている頃の

ローマ皇帝って、いたのかなァ。

今日もわけも分からない事を書いてしまいました。

UNQUOTE:

顔に入れ墨は一部古代日本人のファッションような気がします。

入れ墨はアイヌとも古代沖縄の人達とも共通します。

古代中国の記録に倭人は海で素潜りをして魚を獲るのが

得意だと書かれています。そこで海の民と呼ばれていたようです。

そしてこの人たちは古代フェニキアからの

定住者だとも言われています。

古代フェニキア人も顔に入れ墨をしていた事が知られています。

長い航海での日焼けを避けるためです。

そして古代フェニキアこそがモーゼが目指した「約束の地カナン」

と言う事はあまり知られていません。

フェニキア人は遠洋航海が得意でした。

日本の各地にもフェニキア文字が見つかっており彼らの

足跡を残しています。一時フェニキア文字のペトログリフが

ブームになった事があります。彼らも海の民です。

だから広く日本の海岸沿いに彼らの痕跡があります。

そしてフェニキア人はなんと古代ヘブライ語を話していました。

ちなみにこの海の民である種族が語源になって

あの裏伊勢籠神社の「海部」さんの名前が来ていると言う事が

記憶の何処かにあります・・・。

余談ですが・・・

友達の風さんが教えてくれました。

山に住んで狩猟で暮らす人々を古代には「山幸」と呼びました。

海に住んで漁で暮らす人々を「海幸」と呼びました。

高い崖の横穴に住んで戦いを避ける人々を「穴幸」と呼びます。

この「あなさち」が北米先住民族のアナサジ族の語源だそうです。

アナサジ族は横穴を住居にしていました。

ちなみに予言で有名なホピ族は「霊を尊び保つ」・・・「保霊」(ほひ)から

来ているそうです・・・。

ほかにも本当にたくさん日本と北米先住民族の間には

共通言語があります。そのことはいずれまた・・・グッド!

話を戻します。

またしても・・・古代ヘブライとスサノオがつながってしまいました。

しかし何よりもこの照さんの記事の時系列や史実の正確さには

おどろいてしまいます。

だとすると・・・もしかして・・・聖徳太子は本当に日本人ではなかった

と言う事になります・・・

中国4千年のおじちゃま・・・恐るべし!!

続きはまたね・・・グッド!

イッピーの独り言

(夢の中でファルコンになって邪馬台国に旅をするボク・・・あっ、矢が飛んできた・・・あいや~・・・あせる

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