契約のひつぎ 26 スサノオの封印の時代背景

みんな元気ですかドキドキ

前回の続き・・・グッド!

先を急ぎます。

スサノオ・ニギハヤヒの直系の末裔である物部氏は勢力争いの後に

蘇我氏に破れました。おりしも仏教の伝来と時を同じくします。

表面的には俳仏派(はいぶつは)と崇仏派(すうぶつは)の戦いでした。

同時にそれは天皇の跡目争いと豪族の勢力争いの複雑な力が

働いた戦いでした。それが前出の照さんの言う「人の世は変われども

人の心の変わらぬものなし」の意味だったのではないかと思います。

この時代は同時に豪族が治める政治が天皇中心の統治の時代に

変遷しようとして世の中が戦乱に明け暮れた時代でした。

聖徳太子が活躍したのは西暦587年の物部氏が滅びた年あたりです。

物部(守屋)氏は蘇我(馬子)氏との戦いに破れます。

この物部氏の滅亡に聖徳太子は積極的に関わっていました。

滅びた物部氏の領地の分配などに自分の意向を反映させています。

参照ウィキぺディア→物部守屋

そして時代は藤原氏に移り変わります。学校の歴史で習う「大化の改新」

が645年に起きます。この時に蘇我氏は藤原氏に滅ばされるのです。

この時に中臣(藤原)鎌足・藤原不比等の親子が藤原氏の不動の地位を

築きます。そして藤原不比等が720年に日本書紀を編纂します。

古事記・日本書紀はこれによって天皇の存在を正当な歴史あるものとして

権威付けを計りその地位を不動のものにしようと言う意図のもとに編纂

されました。

・・・以上がスサノオが封印された時代の歴史的背景です。

スサノオ直系の物部氏がいた頃にはスサノオが封印されることは論理的に

ありえません。つまり587年~720年までの間にスサノオは封印された

事になります。その時代に封印の技術を持った人物がいたのでしょうか。

ここで浮かび上がって来るのが秦河勝という生没年不詳の謎の人物です。

参照ウィキぺディア→秦河勝

秦氏はこの時を境にして一挙に歴史の表舞台に現れます。

スサノオの封印に関わっていると思えるのです。

言わば藤原氏が黒幕とすれば秦河勝は実行犯だったのかもしれません。

そこでの聖徳太子の役割とは・・・。

そして秦河勝とはどんな人物だったのでしょうか。

その背景には何があったのでしょうか。

そして何よりも

「契約のひつぎ」はいったいどこに行ったのでしょうか・・・

続きはまたね・・・グッド!

イッピーの独り言

(パパ~・・・いよいよだね~・・・パー

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