オリンピックマラソン競技涙の最長公式記録

みんな元気ですかドキドキ

ある日本人オリンピック選手のおはなし・・・グッド!

金栗四三(かなぐりしそう)は1911年(明治44年)翌年の

スウェーデンで開かれるストックホルムオリンピックに向けた

マラソンの予選会で足袋をはいて当時の世界記録

(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録

(2時間32分45秒)を出しました。かれは短距離の三島弥彦と共に

日本人で初めてのオリンピック選手になりました。

余談ですが・・・

カンボジア国籍を取得してまでオリンピックのマラソン競技に

出場しようとしたコメディアン猫ひろし氏の予選タイムは

2時間37分39秒です。距離も違うし条件も違うので単純比較は

できませんが距離の違いだけを調整し計算すると猫ひろし氏の

記録は当時では世界最速なんです・・・。

1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックで金栗は

レース途中で熱射病で意識を失って倒れ近くの農家で介抱されます。

その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝でした。

その日ストックホルムは気温が40度あったそうです。

ウィキペディアによると当時の状況は以下のようでした。

転載します。

「当時、日本からスウェーデンへは20日もかけて船と列車でかかり、

さらにスウェーデンの夜は明るいため、睡眠にも支障があった。

食事面では、当時のスウェーデンに米はなかった。その上マラソンの

当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければ

いけなかった。また40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ

半分が途中棄権し、ポルトガル代表のフランシスコ・ラザロは倒れた上、

翌日亡くなった。マラソン中に消えた日本人の話は、地元で開催された

オリンピックの話題の一つとしてスウェーデンでは

しばらく語り草となっていた。」

・・・とあります。

悪条件が重なったんです。

そして金栗は長い間消えた日本人のミステリーとして記憶されました。

小説になったこともあるんです。

それから55年の時が流れました・・・

ウィキペディアには次のようにあります。

「1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から

金栗はストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に

招待される。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思が

オリンピック委員会に伝わっておらず「競技中に失踪し行方不明」

として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を

調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典で

ゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ

赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。この時

「日本の金栗、ただいまゴールイン。

タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。

これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」

とアナウンスされた。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録は

世界一遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は

無いだろうと言われている。」

感動の涙の公式最長記録です・・・。

オリンピックには「途中棄権」という記録はありますが「行方不明」

という記録は存在しないために彼のゴールは公式に認められたのです。

もちろん当時のストックホルムのオリンピック委員会の粋な計らいでは

ありますがここにもスポーツに関わる人間の尊厳がその粋な計らい

と同じくらいに光っています。

金栗はゴール後の自分ひとりのためのオリンピックの閉会式で

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました。」と

ユーモアをこめてコメントしたそうです。

彼は1983年に92歳で亡くなりました。

ちなみに彼は毎年正月に開かれる箱根駅伝の開催に尽力し

この功績を讃え箱根駅伝では2004年(平成16年)より

最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されているそうです。

イッピーの独り言

(ふ~もう駄目・・・ボク走れない・・・汗

ペタしてね

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です