みんな元気ですか
前回の続き・・・
その蘇我氏ですが・・・
歴史上に初めて出てくるのは西暦500年代の初めの蘇我稲目です。
稲目は蘇我馬子の父親とされている人物です。
それまではまったく無名の豪族とされています。
その出自が謎に包まれているのです。
その家系図を見ると蘇我氏は非常に入り組んだ姻戚関係をもち
実力者との関係を強めたように見えます。
物部守屋を滅ぼしたのは蘇我馬子でしたが実は馬子の妻は
物部守屋の妹でした。その子供の蘇我蝦夷(えみし)の妹の
刀自古郎女がさらには聖徳太子の妻になっています。
つまり蘇我蝦夷に滅ぼされた山背大兄皇子は蝦夷の甥にあたります。
聖徳太子の息子である山背大兄王はおじさんに殺されたのです。
さらにもとをたどれば聖徳太子自身も(日本書紀に拠れば)
蘇我稲目の子孫となっています。
以上の部分家系図参照→蘇我氏
これだけでも聖徳太子がいかに蘇我氏を庇護者として、あるいは
身内同様の近い存在として思いを寄せていたかが想像できるのですが
それを裏切られたのはやはり相当なダメージだったかもしれません。
さらにもう一つの知られざる事実があります。
実は蘇我氏も渡来系外国人の可能性が非常に強いんです。
蘇我氏の「蘇」の文字もそのことを示唆しますが・・・。
上に参照した家系図の一番初めの部分・・・つまり蘇我稲目の祖先・・・
は「高麗」となっています。これが事実だとすると明らかに蘇我氏は
帰化人の一族なんです。
だとするとこの一連の事件はにわかに別の様相を表して来ます。
まったく今までと違う次元のストーリーが展開します・・・。
古代日本はもしかすると・・・
外国人同士の戦いの舞台だったのかもしれないのです。
続きはまたね・・・
歴史は・・・ひっくりかえるのさ・・・こんな風にねっ・・・)