みんな元気ですか
番外編シリーズ最終章です・・・
吉備真備が唐から持ち帰り伝えたとされる陰陽道の聖典である
『金烏玉兎集』には実は解けない謎が秘められています。
それほど重要な書物をなぜ朝廷ではなく阿部仲麻呂の子孫に
伝えたのでしょうか。言い伝えによりますと常陸国筑波山麓で
阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたといいます。
常陸の国とは今の茨城県です。都から遠く離れた土地です。
ここに謎が秘められているような気がします。
実は吉備真備は加茂氏の縁戚です。
そのことに少し触れてみます。
京都の世界遺産であり国宝に指定されている下賀茂神社の
正式名称は「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)といいます。
上と下の賀茂神社は加茂氏のご先祖を祀る神社でもありますが、
この御祖(みおや)とは皇室のおおもとの祖先と言う意味です。
皇室のおおもとの祖先とは一人しかいないのです。
上賀茂神社(=正式名称は賀茂別雷神社)とともにご祭神は
別雷命(わけいかずちのみこと)です。この神様こそ二ギハヤヒの
事なのです。ちなみにその偉大な父親のスサノオは雷命(いかずちの
みこと)といいます。このことには以前のシリーズでも何度も触れました。
ここに謎を解く大きな鍵が秘められているのではないでしょうか。
これこそがまるで陰陽道の術そのもののような大きな秘められた計画が
埋め込まれていた気がするのです。
そもそも吉備真備は本来であれば岡山県出身の地方の豪族でした。
その子息の真備がまず遣唐使に選ばれることも不自然です。よほどの
コネがなければ当時は留学生にはなれないのです。
吉備真備の出自にはそれなりの敬意が払われていたと思えるのです。
さらに帰国した後でも朝廷内で異例の出世をしています。
吉備朝臣(あそん)という称号にまで上り詰めています。
その後、藤原仲麻呂(阿部仲麻呂とは別人です)に
敵視され左遷されています。
結論です・・・
吉備真備が陰陽道の聖典を朝廷に献上しなかった理由は
自分の祖先である二ギハヤヒの復権をいつの日か願っていたためと
思えるのです。当時700年代の中ごろから後半は藤原氏による執拗な
スサノオ・二ギハヤヒに対する封印も一段落し、人々の記憶からも
薄れていたのです。
そして陰陽道は親交の深かった阿部仲麻呂の子孫である
阿部清明に託されました。
しかし阿部清明自身は二ギハヤヒとは無縁です。
こうして陰陽道は権力者に庇護されてはいましたが
それ自身が独立した技術を磨いて行ったのだと思えるのです。
最後にもう一つ・・・
吉備真備が秦氏と親交が深かったことは
あまり知られていません。
これでこの番外編シリーズを一応の終わりにします。
お付き合いいただきましてありがとうございました。
(さらば陰陽師・・・また会う日まで・・・)