大地との会話 8 秦の始皇帝のなぞ

みんな元気ですかドキドキ

古代日本にあふれるロマン・・・グッド!

徐福は秦の始皇帝の意向を受けて日本に旅立ちました。

数千人の高貴な子供達を託されて。

その中にはおそらく始皇帝の実子も含まれていたと思われます。

時代の流れ的には秦の国が滅びる少し前です。

紀元前2世紀前後だと思います。彼らは食糧確保の

ため当時の最新の技術と多くの植物の種や苗を日本に運びました。

特に稲作には力を入れました。稲作は治水灌漑の整備を必ず伴います。

彼らは高度な灌漑の技術を持っていたのです。

当時の日本人にはまるで・・・

寝太郎がいきなり岩をおとして水路を変えたような印象に映ったのかも

知れません。なぜ彼らがそのような高い技術を持っていたのか。

そのことが実は秦の兵馬俑を擁する始皇帝稜からうかがう事が出来ます。

ウィキペディアによると始皇帝稜
は以下のように説明されています。

・・・

1974年に地元の住民により発見された。兵馬俑坑は、この陵を取り巻く

ように配置されており、その規模は2万平方メートル余におよぶ、

きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、

武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。

この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具

等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重な

ものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所

だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に

武士俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、

調査がなされていない。史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の

川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考え

られていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発

が確認され、真実である可能性が高くなった。

・・・

(地下帝国の兵馬俑/ウィキペディア)

おそらく徐福に同行した一団の中にはこの始皇帝稜の地下帝国建造に

関わった技術者(あるいはその子孫)がいたと思うのはごく自然な事です。

それだけでも当時は世界的な先端技術だと思いますが、実はさらに

ほかにも秘密があります。始皇帝稜は盆地のような山を

背景にしています。山からの地下水路が始皇帝の墓に流れ込むんです。

しかし地下水の浸食をうけると始皇帝の遺体は腐敗してしまします。

それを防ぐために彼らは地下水の流れをも変える事によって水の影響が

が始皇帝稜に及ばないようにしていることが最近の発掘調査で明らかに

なってます。

この意味は実は遺体を腐敗させないというためだけではありませんでした。

地下の水脈をコンロールして始皇帝稜が盗掘されたり破られないように

龍脈を貼り強力な結界張りめぐらしたのです。しかしそれすらも発掘調査で

分かってきたいくつもの仕掛けの一つに過ぎません。まだ発掘されては

いませんが地下にピラミッド様の建造物の存在が音波探知機で明らかに

成っています。

さらに・・・

始皇帝はピラミッドにこだわっていることがもう一つの状況からも

明らかになっています。

始皇帝が徐福を見送ったのは「琅邪台」でした。

この「台」の意味も実はピラミッドでした。始皇帝はこの台の上から

東にのぼる朝陽を何度となく眺めたと言います。

実はこの琅邪台の地下にも最近ピラミッドが発掘されていることが

分かりました。

なぜ始皇帝はこれほどピラミッドにこだわったのでしょうか。

続きはまたね・・・グッド!

イッピーの独り言

(夢の中で始皇帝のお墓に行ってきたボク・・・広くてヘトヘトあせる

ペタしてね

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