みんな元気ですか
聖徳太子の謎・・・
聖徳太子は彼の正式名称ではありません。
歴史の教科書に出てくる名前は厩戸皇子(うまやどのおうじ)です。
ほかにも豊聡耳皇子(とよさとみみのおうじ)あるいは厩戸豊聡耳皇子
(うまやどとよさとみみのおうじ)などの名前があります。
仏教の庇護者として知られていますが仏教では太子の事を
南無上宮太子聖徳皇(なむじょうぐうたいししょうとっこう)とお唱えします。
聖徳太子と言う名前が付いたのは実は彼の死後100年経ってからの事だと
ウィキぺディアにはあります。(参照ウィキっペディア→聖徳太子
)
用明天皇の第2皇子と伝えられていますがはっきりしません。
実は出自不詳なのです。日本書紀にいくつかの記述があるだけで
真実を語る史料があまりにも少ないのです。
その日本書紀は藤原不比等が監修し藤原氏の都合で書かれていて
史料と呼ぶのには抵抗があります。
つまり聖徳太子という存在は謎が多すぎるのです。
この事から聖徳太子は実在しなかったという説まであります。
伝えられている太子の業績は憲法17条を制定し、仏教を広めて
民衆の心を掌握し、政治の安定をもたらしました。
さらには遣隋使を派遣して、隋という大国と対等の交易関係を
成功させるなどがあります。
疑えばきりがありませんがその業績の多くには裏があるような
においがします。
おそらく憲法17条や遣隋使の派遣の際に隋に渡した書簡・・・
「日いずる処の天子、日没する処の天子に申す。つつがなきや。。。」・・・
の作成には太子が関係していると思われます。
この点は先の章で聖徳太子はキリスト教だった事と関係します。
実は憲法17条もこの遣隋使の書簡もキリスト教の知識がなければ
出来ない物だからです。憲法17条はモーゼの律法と非常に似ています。
根幹の部分はまる写しだと言われています。
遣隋使の書簡の「日いずる・・・日没する・・・」という表現は旧約聖書に
同じ文言があります。つまり聖徳太子のオリジナルではないのです。
さらに・・・
彼はキリスト教だったにも関わらず何故仏教を広めたのでしょうか。
ここに藤原氏の匂いがするのです。
藤原氏はスサノオ・二ギハヤヒを封印しました。その系列の子孫である
物部氏の一族を全て根絶やしにしました。弓削の道鏡の弓削氏等も
その犠牲になっています。道鏡が天皇家に謀反をはたらいたという罪は
濡れ衣の疑いがつきまといます。ねつ造された人物像が見え隠れします。
その証拠に弓削道鏡は天皇家に謀反を働いたとされる重罪にあたる
犯罪をはたらいたとされる割には死罪にはなっていません。不可解です。
物部氏は神道の代表格でした。これに対抗するには仏教は好都合です。
広まった後で藤原氏が仏教の庇護者になることについてはさほど
問題はありません。しかし最初に仏教を広めたということになると
あまりにも物部氏つぶしがはっきりしすぎて大義名分が立たなかった
のかもしれません。そこで聖徳太子という人物像を作りだし仏教の
急先鋒に仕立て上げた・・・という可能性があります。
聖徳太子が怨霊になって彷徨っていると言う説が根強くあります。
以上の状況を考えると太子の利用された人物像という姿が
浮かびあがって来ます。
聖徳太子はいまだに怨霊となって京都の町をさまよっているのでしょうか。
続きはまたね・・・
(怨霊になったらアブナイです・・・だめですワン・・・)