みんな元気ですか
昨日のつづき・・・
聖徳太子は天平の時代に日本に新風を吹き込みました。
その風はさわやかな希望と光に満ちていました。
しかし世界は光と闇のバランスです。
裏の部分でどうしてもやらなければならないことがありました。
それはある意味日本における外国人の地位向上でした。
恐らく太子はローマ人風の白人の風貌をしていたのだと思います。
一方、東洋人でありながら当時差別待遇を受けていた人たちが
いました。それが大陸から渡って来た帰化人の一団でした。
帰化人は多くの有益な技術を日本にもたらしました。
その代表格が秦河勝でした。
太子は河勝と手を組みます。
二人は当時の外国の諸事情に通じていました。
この情報力は当時においては圧倒的な優位性と力をもたらしました。
話は変わりますが・・・
当時の宮中では外国の事に詳しいと言うのはそれ自体が
憧れであり、同時に力を意味しました。
その外国とはまずは隋や唐の事でした。
一番近くそして先進の大国だったのです。
貴族がこぞって中国語を勉強したのは言うまでもありません。
それが漢字です。
上級官吏はみな中国語が話せたとも言われています。
教養とは漢字が読めることと同義だったのです。
命に引き換えても遣隋使や遣唐使になり中国に留学することには
それほどの魅力があったのです。
ちなみに当時の航海は非常に危険なものと思われていますが
恐らく日本の航海技術はとても未熟なものだったと思われます。
だから荒れ狂う東シナ海をわたり中国までたどり着くことが
出来たのはおよそ半分にも満たなかったと言われています。
かなりの数のまだ名もない若い優秀な人材が途中で失われました。
しかし海のシルクロードを渡ってきたヨーロッパ人にとっては
恐らく日本から中国に渡ることはそれほどの危険な仕事では
なかったのではないでしょうか。船の大きさや航海技術にも
大きな彼我の差があったと想像します。
話を戻します
聖徳太子と秦河勝は外国の事情に関する情報力をもとに
お互いの利益・目的のために仕事を分担します。
太子は主に表の仕事。河勝は主に裏の仕事をします。
形としては太子が名をとり河勝が実を取ったのです。
太子は日本のために多くの実績を残します。
河勝は当時の日本にとっては全く新しい技術やノウハウをもって
太子の政治力の庇護のもと巨万の財力をたくわえます。
同時に音楽・芸術の分野にも足跡を残します。
この両者はお互いが必要だったのです。
しかし・・・
この両者の協力はそれだけではありませんでした。
秦河勝はその財力で伊勢神宮を創建します。
あの伊勢の地に日本各地を長い間放浪したアマテラスの
安住の地を作ります。これはもちろんお話の中の・・・
つまり想像上のアマテラスです。
同時におそらくは出雲大社の創建にもかかわっています。
藤原氏の庇護の下でこその自分たちの地位・活躍の場です。
どうしても古事記・日本書紀のストーリーに証拠を合わせる
必要がありました。大国主命は想像上の人物です。
その証拠に大国主命を勧請している神社は日本全国に
数えるほどしかありません。伊勢と出雲の両神社の創建に
太子と河勝の一つの目的の達成を見るのです。
ちなみに伊勢神宮の灯篭の6芒星は秦河勝に由来します。
秦氏は直接的には中国からの帰化人ですが
もともとはダビデを祖神とする古代ヘブライにまでその
みなもとをたどることが出来ます。
そして・・・
河勝の伊勢神宮創建には
絶対に知られてはならない聖徳太子と秦河勝の
陰陽師に繋がる大きな秘密と謎があるのです・・・。
続きはまたね・・・
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(ダビデの星と16花弁菊花紋の石灯籠)