みんな元気ですか
以前僕は「やまと言葉」という記事を書きました。
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震災の復興にあたり日本人の秩序正しい行動や
助け合い、譲り合いの心が海外からも驚きと称賛の目で
見られています。
その心のもとになるものが奥ゆかしい響きと言葉自体が持つ
心から来ているのではないかと思ったからです。
その言葉をもとに日本人は物事の理解を深めて行きました。
言葉を通して物事を受け止めさらに自分の思いを表現して来ました。
古今和歌集などの日本古来の「歌」には今でも驚くような
豊かな表現が息づいています。
いくつか例をあげます・・・
谷の氷・・・こころがとけない
遠山の花・・・恋しく思う
二重衣・・・また来てほしい
松吹く風・・・さわがしい
花色ころも・・・こころが移ろいやすい
宿り木・・・かりそめなちぎり
等など・・・
ほかにもたくさんありますがおよそ恋心に関する表現は
星の数ほどあるのです。
これらはかならずしも慣用句ではなかったと思います。
しかし歌の中の前後の文脈では明らかに
それと理解される示唆として使われています。
だから同じ意味でも違う表現がたくさんあります。
それだけに表現も微妙なニュアンスを場合に応じて
いくつもちりばめることが出来たのだと思います。
これは江戸時代でも脈々と受け継がれ
言葉遊びから派生したダジャレのたぐいは本当に多いのです。
江戸時代の落語や小説や歌舞伎には楽しげな言葉の使いまわしを
たくさん見ることが出来ます。
ある意味これはもう芸術の域です。
それを「粋(いき)」といいます。
心意気という表現もありますよね。
それ自体が「なるほど」と手を打ちたくなるようなキレの
あるものに出会うとこう言いたくなります・・・
「うーん、しぶいぜ八丁堀!」
すみません。八丁堀には特に意味はありません・・・(あは!)
それにもまして相手を思いやり直接的表現を避けた心遣いには
感動を覚えます。
逆に「お里」が知れないように工夫された花魁(おいらん)言葉があります。
テレビドラマ「JIN-仁」の中で出て来る野風(のかぜ)の話し言葉です。
そんな言葉に対する感性が失われているとの批判もありますが
今でもその心は日本人の感覚の中に
力強く生きているような気がするのです。
(トモダチ・・・って素敵な響き・・・でもこの言葉どこから来たんだろう・・・考えると不思議)