みんな元気ですか
前回の続き・・・
スサノオの第5子であるニギハヤヒはフルネームを
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしたま ニギハヤヒ の みこと)
と言います。
父スサノオの命を受け九州平定をした時は幼名
「大歳」(おおとし)を名乗っていました。
大和にはいる直前に名前を変えました。
関西以西に大歳神社はたくさんあります。
彼が名前をニギハヤヒに改名した後・・・
つまり大和にはいってからは大歳神社はありません。
ニギハヤヒが大和を統一した後は三輪山の大神(おおみわ)神社
のある場所に都を定め日本の国作りに専念します。
ちなみにスサノオにはニギハヤヒを含め
五十猛(いたける)や須勢理姫(すせりひめ)など8人の子供がいた
と言われています。
スサノオはこれらの子供たちを各地の要所々々に配置します。
これが3世紀前半の頃の出来事です。
時は下り古事記・日本書紀が編纂されたのが8世紀初頭でした。
その前7世紀後半にニギハヤヒの直系の子孫物部氏と
蘇我氏・藤原氏の対立があります。
神国日本の礎を築いたニギハヤヒの血を引く物部氏はこの時に
仏教擁護派の蘇我氏・藤原氏によって完全に滅ぼされてしまいます。
政治の実権を握った藤原氏は仏教を立て国を治めようとします。
そのためには物部氏とその祖先スサノオ・ニギハヤヒの痕跡を
完全に消す必要がありました。
そこで人々の記憶を一新し後世に藤原氏の正当性を主張するために
日本各地に残るスサノオ・ニギハヤヒの伝承を記録した文書を
集め全てを焼き払います。そして古事記・日本書紀を作成し
スサノオ・ニギハヤヒを神話の世界に追いやり実在しなかったという
イメージに造り変えてしまうのです。
同時に日本全国にあったスサノオ・ニギハヤヒを祀る神社の多くを
とりつぶしあるいは主祭神の名前を変えさせました。
その代表的な事例が大山祇神社だったのです。
しかし地方の豪族や古くからスサノオ・ニギハヤヒを崇敬した人々は
これに抵抗しました。全てを消し去ることは到底出来る事では
なかったのです。しかし藤原氏の思惑通りに後世に重要な歴史の
手掛かりとして古事記・日本書紀は残ったのです。
続きはまたね・・・
(歴史は曲げられた・・・ボクも曲げられた・・・だれに?)