みんな元気ですか
前回の続き・・・
スサノオとは一体どんな人でどこから来たのでしょうか。
その手掛かりになるのが彼の持っていた農耕や金属精錬の技術です。
治水灌漑に関しても高い技術を持っていたことがうかがい知れます。
どれを取ってもそれまでの日本にはなかった高い水準の技術です。
彼らは大和を平定すると直ちにインフラ造りに着手します。
灌漑用水を引き人々に稲作を指導します。
水路を確保し船が出はいり出来るようにしました。
外国とも交易を可能にしました。今までにない規模の市をひらきます。
人々は豊かになります。それまでと違って食べるものの確保に
不安がなくなります。スサノオとニギハヤヒが通った後には
今までと比べ物にならない繁栄がありました。
ニギハヤヒは大神神社に都をつくり大和では薬草の栽培も指導し
奨励します。人々は病気の不安からも解放されるのです。
大神神社の4月18日は毎年
「鎮花祭」(はなしずめのまつり)が行われ神前に
薬草をお供えします。
「大同類聚方」と言う後世書かれた和方の医薬の書物に
大神神社に伝わる薬とその製法や効能が述べられているそうです。
スサノオ・ニギハヤヒは他所から来た征服者にも関わらず
大歓迎されるのです。
そこには彼らが大いなる大王と呼ばれ人々から限りない崇敬を
集めていた理由があるのです。
さてスサノオ・ニギハヤヒが活躍したのが紀元150年頃だと推測されます。
それ以前にそんな技術を持っていた集団がはたしてあったのでしょうか。
思い当たる技術者集団が一つだけあるのです。
遡ること3~400年くらい前に日本に来たと思える徐福の一行でした。
参照→消された徐福の存在
徐福は紀元前3世紀頃確かに日本に来ています。
当時の中国の複数の記録によると
「三千人の身分の高い家がらの子供とさらに
数千人のあらゆる分野の技術者を引き連れて・・・」とあります。
その記録とは・・・
例えばAD82年に編纂された「漢書」
ほかにも「郊祀志」、「地理志」、「列伝十五の伍被」、
5世紀前半に編纂された「後漢書」
あの有名な「三国志」(3世紀に編纂)、
ほかにも数え切れないほどの古代中国の歴史書に
その名前とその行動が史実として書かれています。
これだけ傍証がそろっているのです。
日本では教科書にすら取り上げられません。
完全に無視されているのです・・・。
それにははっきりとした理由があります。
実は日本の天皇制にとって、特に戦前は極めて都合が悪い事実と
つながっていたからです。そのパンドラの箱を無理にこじ開けることは
避けたいと思います。ただその証拠が裏伊勢籠神社にあるとだけ
述べたいと思います。しかし彼らは無視するにはあまりに多くの存在の
痕跡を日本中に残しています。本当に驚くほど多くの地方に
「徐福渡来の地」がありそれを記念するための顕彰碑があります。
おそらくスサノオは徐福のグループの子孫ではないかと想像します。
しかもその中でもかなり身分の高い子弟・・・おそらくは
秦の始皇帝の血筋かもしれません。
続きはまたね・・・
(ボクも高貴な血筋だってことどうも隠せないなぁ~、てへへ・・・って、マジすか
)