聖徳太子 13 飛鳥・・・うたかたの夢

みんな元気ですかドキドキ

聖徳太子の怨霊の続き・・・グッド!

推古天皇は日本史上初めての女帝でしたがその在位36年の

間は比較的安定した時代でした。

しかし推古天皇の没後情勢は風雲急を告げます。

史料は日本書紀に依りますが・・・駆け足で歴史を見てみます。

史料参照ウィキペディア→飛鳥時代

聖徳太子は621年に亡くなります。

続いて太子の庇護者の蘇我馬子が626年に没します。

さらに推古天皇も628年に亡くなります。

その後、蘇我蝦夷(えみし)と子の蘇我入鹿(いるか)が執政を執ります。

推古天皇の跡継ぎを決める時に問題が起こります。

聖徳太子の子供とされる山背大兄王(やましろのおおえのおう)は

田村皇子(舒明天皇)と皇位継承権をめぐり争いになり、田村皇子を

推した蘇我の蝦夷と入鹿の親子に滅ぼされてしまいます。

そしてその後蘇我氏の親子の専横ぶりが目立ったと日本書紀には

書いてあります。しかしその蘇我氏の親子も645年に藤原氏

(中臣鎌足・なかとみのかまたり))によって滅ばされてしまいます。

蘇我氏の繁栄も約50年で終わりを告げてしまうのです。

はるか1400年後の現代からみればまるで日替わりのように

政権が交代しています。すべて勢力争いの戦いの結果でした。

さて、聖徳太子の立場からこれを見ると、最大の庇護者であった

蘇我氏の一族に自分の血脈を滅ぼされた事になります。聖徳太子は

今までに蘇我氏に大変な貢献をしてきました。あくまでも日本書紀に

依りますが・・・蘇我氏繁栄の道筋を付けたのは物部氏との戦い

以来の聖徳太子の貢献によるものでした。自分は蘇我氏の最大の

恩人のはずです。身内とも信じていた一族に裏切られたのです。

それだけではありませんでした。自分の血筋が天皇になる機会さえ

奪われたのです。

聖徳太子の政治に対する最大の貢献は仏教を主体として

国民の意識の統一をはかりこれにより政治体制を確立したことでした。

そのために「汚れ役」も引き受けました。それ以前の神道を中心とした

政治体制を一掃するために実行部隊としてスサノオ・二ギハヤヒ及び

その末裔のおびただしい数の物部氏の一族等の封印にまで

手を染めました。これだけでも聖徳太子が怨霊となって蘇我氏を

恨むのには十分だと思えます。

しかしそれだけでしょうか・・・。

勢力争いによる戦いは当時は日常茶飯事のような状況でした。

日替わりで政権が交代する時代でした。

戦いに敗れた者が歴史の舞台を去って行くのは当然の成り行きです。

それだけで「怨霊」となるには不自然さが残ります。

他に理由があるような気がするのです・・・。

その答えのヒントが蘇我氏の家系にありました。

続きはまたね・・・グッド!

イッピーの独り言

(すべてはうたかたの夢・・・なのさ・・・ハートブレイク

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