スサノオとアメリカと「ウガヤフキアエズ王朝」を結ぶ線

みんな元気ですかドキドキ

スサノオと古代オリエントのつながり・・・グッド!

エラム古王国から発見されたハムラビ法典がリパブリックの

潮流の原点になっていることをご紹介しました。

そのエラム王国とスサノオは遠からぬ因縁があります。

過去記事をもう一度ご紹介します。

京都の八坂神社は明治初頭の廃仏毀釈以前は

祇園神社と呼ばれていました。

その祇園さんの主祭神牛頭天王はスサノオのことです。

いかにも日本の神とはかけはなれ

牛の角を生やし農耕の神とされています。

(スサノオ=牛頭天王)

 

これはバール神あるいはマルドゥク神と言う神と似ています。

バール神は古代オリエントのバビロニアで崇拝されていた

聖牛の姿をした神です。

マルドゥク神は牛ではありませんが神の中の神であり

古代バビロニアでは絶対的な神として崇拝されていました。

同時に農耕の神でありしかも龍に乗っていました。

そしてイカズチノ神つまり竜神として祀られています。

(古代バビロニアのマルドゥク神/ウイキペディア)

実はイカズチノ神(雷の神)とはスサノオの別名です。

スサノオが龍神そのものであることもこれら古代オリエントの

神々とイメージが重なります。

夏は祇園祭りの季節です。

そのスサノオのお祭りである山鉾(やまぼこ)巡行の山鉾が

古代オリエントの文化を色濃く残している事がさらにスサノオの出自が

古代オリエントと何らかの形でつながりがある事を思わせます。

一般に言われるように古代ユダヤとの関係は見えません。

スサノオの出自が古代オリエントであるという事についての

確証はありません。しかしその事を想像させる十分な材料は

実は沢山あります。

前の章でご説明した古代オリエントのエラム王国は、考古学上では

少なくとも紀元前3200から紀元前539年まで続いた強大な王国でした。

その首都はスーサと言います。

バビロニアと熾烈な攻防を繰り広げた王国でした。

エラムから有名なバビロニアのハムラビ法典が発見されたのも

エラムがバビロニアから略奪したものがスーサで発掘されたのです。

しかし王国の最後はバビロニアによって完全に滅ばされました。

その時のバビロニアの王がネブカド・ネザルでした。

つまりそのエラム王国の残党が逃れて子孫が日本にたどり着いた

可能性は十分考えられるのです。

その指導者格の人物が「スーサの王」を名乗ったのかもしれません。

それがスサノオになった・・・。

ちなみに・・・

エラム王国とバビロニアの闘争の最大の争点は「製鉄」の

技術支配にあったと言われています。

スサノオがおろち族と戦ったのも鉄をめぐる争いでした。

(参照→スサノオとヤマタノオロチ

http://tenmax.sakura.ne.jp/cid21772/?p=3189

エラムにはいくつか王朝がありました。

そのもっとも勢いが強かった時代に

イゲ・ハルキ朝という王朝が栄えていました。

(参照ウィキペディア→エラム

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0)

その王朝の初代王の名前が同じくイゲ・ハルキと言いました。

これが転じて「二ギハヤヒ」となったのかもしれません。

さらにはこの語感がウガヤフキアエズと似ていることも

気になります。ウガヤフキアエズとは人名とされる場合には

記・日本書紀によれ神武天皇の父尊とされ、

別に同名の王朝を指す場合もあります。

ちなみにニギハヤヒ(饒速日)とは日本を平定した初代天皇で

今の大神神社に宮殿をつくり、奈良県桜井市を最初の都を作りました。

参照過去記事→大和の大王ニギハヤヒ

スサノオ・二ギハヤヒとエラム王国とは考古学的には年代が違います。

エラム王国の彼らが直接古代の日本に来たとは考えにくいのですが、

しかし何か時空を超えたつながりを感じます。

続きはまたね・・・グッド!

 

(クリック拡大)

 

イッピーの独り言(バビロニア王国・・・遠くにバベルの塔が見える・・・)

 

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