みんな元気ですか
少し歴史の闇を覗くことになります・・・
聖徳太子には常に陰ひなたに行動を共にした側近がいます。
それが秦河勝(はたのかわかつ)という人物です。
秦河勝についてウィキペディアに以下の説明があります・・・
「秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した
渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。
河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーン
として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に
関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、
伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。」・・・とあります。
河勝の活動の記録があるのが西暦600年の前半です。
ここで注目したいのがまず第一にこの年代です。
それに「伊勢神宮の創建などに関わった」・・・
という部分です。伊勢神宮と言えばあの天照大神を祭る日本で
最大の神社です。正式名称を「神宮」と言います。
この時代の歴史の背景に聖徳太子の思いの謎が隠されて
いるのかもしれません。
さて、その歴史の背景ですが・・・
さかのぼること約400年、西暦200年くらいに日本はスサノオと
二ギハヤヒの親子によって黎明期を切り開かれ
初めて国家統一がなされました。
参照→龍の復権
日本が国としての幕開けを告げる時代の長いシリーズです。
二ギハヤヒは現在の大神神社に大和朝廷の最初の都を開きました。
およそ西暦200年の半ばと推定します。
その後二ギハヤヒの子孫物部氏は繁栄を誇りましたが、当時の一大
軍事勢力として台頭してきた曽我氏に勢力争いを仕掛けられ一族は
滅ぼされてしまいます。物部氏は祖神スサノオ・二ギハヤヒの威光に
よりそれまでは朝廷内では最大の勢力でしたが神に仕える神官の
一族です。圧倒的な曽我氏の軍勢の前に勝利することはできません
でした。587年の事です。物部氏の財産や領地のほとんどが曽我氏の
物になります。その裁定を下したのが聖徳太子でした。このことにより
聖徳太子は曽我氏と関係が深くなります。曽我氏は朝廷と姻戚関係を
深く結んでいました。聖徳太子は曽我氏を先祖にもつ女帝推古天皇の
摂政になります。当時は強いものが覇者となる時代でした。
権勢を誇った曽我氏もそののちに勢力を強めた藤原氏に実権を明け渡す
ことになります。
この物部氏、曽我氏、藤原氏と続いた争いは表面的には氏族の勢力争い
でしたが同時にスサノオ・二ギハヤヒがひらいた神道・・・単なる宗教的
神道ではなく大自然とともに生きる政治「祀りごと」の色彩が強いもの
でした・・・が当時中国からもたらされた仏教に主導権を明け渡すという
宗教的変遷・・・時代の移り変わり・・・の意味を強く持っていました。
聖徳太子は少なくとも表面的には推古天皇の摂政として仏教を
奨励します。これにより政治的に人心統一を図り同時いに朝廷の権威を
高めようとしたのです。
その強力な後ろ盾が曽我氏であり太子のブレーンの秦河勝でした。
時代の風はさらに通りすぎて行きます・・・
続きはまたね・・・
(時代は裏が表に表が裏に・・・あれっ・・・どうなってるの)