陰陽師の謎 57 スーサの王

みんな元気ですか ドキドキ

スサノオと古代オリエントのつながり・・・グッド!

再び過去記事より。

スサノオとの関連で先の章で八坂神社の事をお話しました。

廃仏毀釈の前は祇園神社とも呼ばれていました。

その章でもご説明しましたが祇園さんの主祭神牛頭天王は

スサノオの事です。その牛頭天王はいかにも日本の神とは

イメージがかけ離れています。牛の角を生やし農耕の神・・・

これはバール神あるいはマルドゥクという神と似ています。

バール神については先の章でご説明しました。これは古代

オリエントのバビロニアで崇拝されていた聖牛の姿をした神です。

絶対的な神として崇拝されていました。同時に農耕の神でありしかも龍に

乗っています。そしてイカズチの神つまり雷神として祀られています。

イッピーの独り言

(古代バビロニアのマルドゥク神/ウィキペディア)

スサノオが龍神そのものであることもこれらの古代オリエントの神々と

イメージが重なります。

そのスサノオのお祭りである山鉾(やまぼこ)巡行の山鉾が

古代オリエントの文化を色濃く残している事がさらにスサノオの出自が

古代オリエントと何らかの形でつながりがある事を思わせるのです。

スサノオの出自が古代オリエントであるという事についての

確証はありません。しかしその事を想像させる十分な材料は

実は沢山あります。

先の章でご説明した古代オリエントのエラム王国は紀元前3200から

紀元前539年まで続いた強大な王国でした。

その首都はスーサと言います。

バビロニアと熾烈な攻防を繰り広げた王国でした。

エラムから有名なバビロニアのハムラビ法典が発見されたのも

エラムがバビロニアから略奪したものがスーサで発掘されたのです。

しかし王国の最後にはバビロニアによって完全に滅ばされました。

その時のバビロニアの王がネブカド・ネザルでした。

つまりそのエラム王国の残党が逃れて子孫が日本にたどり着いた

可能性は十分考えられるのです。

その指導者格の人物が「スーサの王」を名乗ったのかもしれません。

それがスサノオになった・・・。

ちなみに・・・

エラム王国とバビロニアの闘争の最大の争点は「製鉄」の技術支配に

あったと言われています。

スサノオがおろち族と戦ったのも鉄をめぐる争いでした・・・。

(参照→スサノオとヤマタノオロチ

http://tenmax.sakura.ne.jp/cid21772/?p=3189

エラムにはいくつか王朝がありました。

その一つ・・・もっとも勢力が強かった時代に

イゲ・ハルキ朝という王朝が栄えていました。

(参照ウィキペディア→エラム

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0)

その王朝の初代王の名前が同じくイゲ・ハルキと言いました。

これが転じて「二ギハヤヒ」となった・・・

もちろんスサノオ・二ギハヤヒとは考古学的には年代が違います。

エラム王国の彼らが直接古代の日本に来たとは考えにくいと

思います。

しかし何か時空を超えたつながりを感じます。

続きはまたね・・・グッド!

(クリック拡大)

イッピーの独り言

(バビロニア王国・・・遠くにバベルの塔が見える・・・)

ペタしてね

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です